主の帰還
白き天使兵の残骸が地に落ち、神の威信が完全に砕け散ったその時。
世界を維持していた『光と闇の天秤』は、限界を超えて完全に崩壊した。
――ゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
魔族領の大地が、幾千キロにもわたって深く、ひび割れ始めた。
空ではなく、地の底が悲鳴を上げている。
魔族領。なぜこの地にばかり濃密な魔の力が吹き溜まり、強大で異形の魔物たちが生まれるのか。
その真の理由は、この黒き大地の遥か地下深くに、星の始まりから存在する『原初の混沌』と呼ばれる太古の魔力が封印されていたからである。
魔族領という大地そのものが、世界の底に蓋をするための巨大な「封印の殻」に過ぎなかったのだ。
そして今、天界の力が一方的に凌駕され、世界の理が狂ったことで、数万年の時を経てその「殻」が割れた。
「……なんだ、あれは……」
はるか後方で観測を続けていた魔将軍ガランは、絶望に顔を歪め、その場に膝をついた。
割れた大地の底から、神聖魔法でも暗黒魔法でもない、根源的でドロドロとした『原初の魔力』が間欠泉のように噴き上がる。
その魔力の濁流の中から、山脈と見紛うほどの巨体を持つ『原初の古代竜』や、伝承にのみ名を残す『星喰らいの獣』たちが、次々と這い出してきたのだ。
神でも魔でもない、純粋な災害の化身。
彼らがひとたび暴れれば、魔族領はおろか人間国も、そして天界すらも無事では済まない。
『――オオオオォォォォォォォッ!!』
古代竜が、天を裂くような咆哮を上げた。
数万年の飢えと怒りを孕んだその視線は、地上で最も濃密な魔力を放つ存在――すなわち、天使を屠ったブライスと三柱の悪魔たちへと向けられた。
巨獣たちが、怒涛の勢いで押し寄せる。
巻き起こる風圧だけで岩山が消し飛び、大地が沈む。
「……主様。少々、厄介な相手が目覚めたようです」
漆黒の刃を構えるシュヴァルツでさえ、その声に微かな緊張を滲ませていた。
ルビーとサファイアもまた、かつてないほどの魔力を練り上げ、圧倒的な質量による死の波濤を迎え撃つ構えをとる。
だが、彼らの主であるブライスだけは、全く動じていなかった。
ブライス
「ふむ。随分と騒がしい寝起きだね」
迫り来る巨大な死を前にしても、ブライスは一切の防御態勢をとらず、ただ静かに、興味深そうに目を細めていた。
古代竜の、城を丸飲みできるほどの巨大な顎が、ブライスを噛み砕こうと真上から襲いかかる。
ルビーたちが迎撃に動こうとした、まさにその瞬間だった。
――カッ……!!
ブライスの魂の奥底で、かつて勇者レオンが受け取るはずだった『最強の祝福』が、まばゆい原初の光を放って脈打った。
それは、単なる強い魔力や便利な魔法などではない。
女神が勇者に持たせようとしていた究極の切り札。この世界が創られた瞬間に存在した『創造の源流』であり、星を統べるための絶対的な権威――『原点の種』。
ピタリ、と。
ブライスの頭上わずか数センチのところで、古代竜の巨大な牙が静止した。
古代竜の瞳に宿っていた狂気と殺意が、一瞬にして『畏怖』と『歓喜』へと塗り替わる。
「……なるほど。女神が勇者に渡そうとしていた『祝福』の正体は、これだったのか」
ブライスは、自らの魂の中で共鳴する絶対的な力を感じ取り、薄く笑った。
ズウゥゥゥン……。
古代竜が、山を揺るがすほどの巨体をゆっくりと折り曲げ、ブライスの足元に巨大な頭部を擦り付けた。
それに続くように、後方から押し寄せていた数多の『原初の魔獣』たちも、一斉に咆哮を止め、地に伏せ、完全なる服従の姿勢をとる。
『……おお、我らが創造の源流。長き時を経て、真なる王が帰還された……! 命ずるままに、我らが牙をお使いください、我が主(創造主)よ!』
古代竜の念話が、ブライスの脳内に恭しく響く。
戦う必要などなかった。神を凌駕する原初のバケモノたちは、ブライスの魂に宿る『原点の種』を一目見た瞬間から、彼を自らの絶対的な主として認識したのだ。
同時刻。はるか上空の天界。
「ば、馬鹿な……ッ!? あり得ない……ッ!!」
神域の最奥から地上の様子を監視していた女神は、信じられない光景に絶叫を上げていた。
世界を滅ぼすはずの原初の混沌たちが、魔族の男の足元に平伏している。
そして、あの男の魂から放たれている光は、間違いなく自分が用意した『世界そのものの所有権』であった。
「私が……私が、魔王を討たせるために勇者に与えたはずの『世界の鍵』が……なぜ、魔族の魂に宿っているというのですかァァッ!!」
女神は、ここに至ってようやく自らの致命的な、そして取り返しのつかない破滅的なミスを理解した。
勇者に力を与え、世界の管理者として君臨するはずだった計画。
だが、その最大の切り札は、最初から『魔の王』の手の中に握られていたのだ。
地上では、世界最強にして最悪の神話級の軍団が、絶対的な主の言葉を待ちわびている。




