天の落日
――神と魔。世界を貫く白き槍と、世界を統べる黒き盾。
理を超越した最強の軍団が今、激突する――
空が、割れた。
魔族領を覆う分厚い暗雲が、幾何学的な光の紋様によって内側から焼き切られ、ステンドグラスのように砕け散った。
それは、はるか遠く、宗教国家アルカディアの最奥で行われた禁忌の儀式の結果であった。
女神の神託を受けた十数名の高位神官たちが、自らの命を触媒として天の門をこじ開けたのだ。愚かな人間を見限った女神が、地上を直接粛清するために放った『絶対の神罰』を呼び寄せるために。
次元の裂け目から、ゆっくりと『それら』が降臨する。
全高数十メートル。大理石のように滑らかで、汚れなき純白の装甲を纏った三体の巨大天使兵。
背には光輪を背負い、その顔と呼べる部位には、感情の欠片もない無数の金色の双眸が機械的に並んでいる。
彼らは、咆哮を上げない。威嚇もしない。
ただ、空中に静止した巨大天使兵の一体が、無機質な視線を魔族領の大地へと向けた。
――キィィィン……。
耳鳴りのような、極めて高い周波数の音が空気を震わせた。
次の瞬間、天使兵の視線の先にあった魔族領の広大な暗黒森が、音もなく『消滅』した。
爆発ではない。燃え上がったわけでもない。ただ、巨大な見えないスプーンで空間ごと抉り取られたように、森と大地が完全な球状に削り取られたのだ。
慈悲も、憎悪もない。ただ、そこにあるものを消し去るだけの、純粋で完璧な殺戮機構。
「……ずいぶんと大掛かりな神の使いだね」
ブライスは、屋敷のバルコニーからその光景を見上げながら、静かにティーカップをソーサーに置いた。
圧倒的な神の威圧感が魔族領全体を押し潰そうとしている中、彼の表情には焦りはおろか、微かな緊張すら見当たらない。
「でも、我が領土を無許可で穢すのは感心しないな」
彼の背後で、三つの影が音もなく立ち上がった。
漆黒の執事服を纏ったシュヴァルツ、真紅のドレスを揺らすルビー、そして冷ややかな蒼い眼差しを空へ向けるサファイア。
ブライスは、夜空の星を指差すような軽やかな動作で、天空の天使兵たちを見据えた。
「シュヴァルツ、ルビー、サファイア。……空の塵を片付けて」
「「「御意」」」
一切の無駄がない、冷酷なまでに統率された三つの返答。
次の瞬間、屋敷のバルコニーから三筋の魔力の奔流が天を衝いた。大地が彼らの踏み込みの反動に耐えきれず、大地震のように激しく鳴動する。
上空へ跳躍した悪魔たちを、巨大天使兵の無数の目が捉えた。
標的の接近を感知した天使兵の一体が、迎撃のために光の腕を振るう。
その懐へと、真っ先に飛び込んだのは真紅の悪魔、ルビーだった。
天使兵は、この下等な魔族を文字通り『弾き潰す』ため、神聖魔法の極致たる絶対防壁『聖なる拒絶』を瞬時に展開した。
魔の力を100パーセント減衰し、完全に反射する、神の理で編まれた不可視の絶対城壁。
通常の魔族であれば、その壁に触れた瞬間に自身の魔力で消し炭になる。
だが、ルビーは止まらない。
むしろ、その可愛らしい唇を吊り上げ、禍々しいまでの笑みを深めた。
「あははっ! 結界が硬い? ならさぁ……」
ルビーの右腕に、空間が歪むほどの異常な質量の魔力が圧縮されていく。
それは、結界を『貫く』ための力ではない。
「その結界ごと、地平線の彼方へスクラップにしてあげるわッ!!」
振り抜かれた小さな拳が、巨大な『聖なる拒絶』の結界表面に激突した。
その瞬間、空中で太陽が爆発したかのような閃光と、鼓膜を破る絶轟が響き渡る。
神聖なる結界は、ルビーの魔力を防ぎきった。結界自体は、ヒビ一つ入っていない。
しかし――結界が受け止めたその『規格外の物理的・魔力的運動エネルギー』を、天使兵の巨体が殺しきれるはずがなかった。
「…………ッ!?」
感情を持たないはずの天使兵の巨体が、くの字に折れ曲がった。
結界を破るのではなく、強固な結界をそのまま『巨大な盾』として押し込み、その後ろにいる天使兵ごとカッ飛ばすという、ベクトルが完全に狂った理外の戦法。
ズガァァァァンッ!!
巨大天使兵は、自らが張った絶対防壁ごと、まるで大砲から撃ち出された砲弾のように後方へと吹き飛んだ。
あまりの速度に真空のトンネルが形成され、置き去りにされた衝撃波が、天使が元いた空間をズタズタに引き裂く。
遥か彼方、数百キロ先にそびえ立つ魔族領の岩山連峰。
そこに、光の尾を引いた天使兵が結界ごと激突した。
次の瞬間、連峰のシルエットが丸ごと消滅し、遅れて天を焦がすほどの土煙と破壊の衝撃が広がっていく。
絶対の力を持つはずの神の尖兵が、ただのピンボールのように彼方へと弾き飛ばされ、山脈ごと塵に返ったのだ。
シュヴァルツとサファイアもまた、残る二体の天使兵に対して一切の容赦のない蹂躙を開始していた。
シュヴァルツの刃は『斬る』という概念ごと神の装甲を透過して中枢を両断し、サファイアの冷気は神聖なる光すらも絶対零度に縛り付け、粉々に砕き散らす。
熱狂も、歓喜もない。
悪魔たちはただ、主の命に従って「塵を掃除する」という作業を、淡々と、しかし規格外の出力で遂行しているだけだった。
「な……なんという……」
魔族領のはるか後方。
魔王城の観測室でその光景を水晶越しに見ていた魔将軍ガランは、戦慄に目を見開き、全身から滝のような冷や汗を流していた。
魔族の軍団を率い、陣形を組み、相性を読み、血で血を洗う戦いをしてきた歴戦の将であるガラン。
彼の知る『戦争の常識』が、今、目の前で音を立てて崩壊していた。
神の理で編まれた絶対防壁を、純粋な『出力の暴力』だけで結界ごと彼方へ弾き飛ばす。
そんなデタラメな戦い方が、この世に存在していいはずがない。
「あの悪魔たち……ブライスの後ろに控えていた時からやばいとは思っていましたが、次元が違います……!」
ガランは、震える手で水晶を握りしめ、乾いた唇から信じられないというように言葉を零した。
「神の兵器を、赤子のように……いや、ゴミのように扱っている。あんな悪魔たちを、あの男は完全な統制下で従えているというのか……? ここにいる悪魔1体だけで、我らの1個軍隊……いや、一つの『災害』に匹敵します……ッ!」
絶対なる神の粛清すらも、黒影の王にとっては「庭の掃除」に過ぎない。
黒き槍は白き盾を貫くどころか、その盾の表面に触れることすら許されず、無残に砕け散っていく。
魔王軍の幹部すら恐怖で震え上がらせる、完全なる蹂躙劇。
天界の女神がこの圧倒的な『力と理の差』を理解するには、もう少しの時間が必要だった。
宗教国家アルカディアの深奥。幾千の聖燭が揺れる大聖堂には、血と狂気に彩られた祈りの声が響き渡っていた。
「おお、女神よ! 我らが命を、魂を捧げん! 穢れた魔族どもに、天の裁きをッ!」
十数名の高位神官たちが、自らの手首を切り裂き、溢れる魔力を祭壇へと注ぎ込んでいた。彼らは信じていた。自らの犠牲によって召喚された巨大天使兵こそが、地上を浄化する唯一の希望であると。
だが、その狂信を切り裂くように、大聖堂の中央、空間そのものがどす黒く歪んだ。
影の中から現れたのは、漆黒の執事服を纏ったシュヴァルツ、紅蓮のドレスを揺らすルビー、そして冷徹な瞳を湛えたサファイア。三人の悪魔は、先ほど地上で迎撃した『巨大天使兵』の、無残に引きちぎられた上半身を引きずりながら、神聖なる大聖堂へと土足で踏み入った。
「な……な、なんだと……ッ!? 天使様が……このような姿に……!?」
絶叫する神官たちの目の前で、ルビーは引きずっていた天使の残骸を、まるで壊れた玩具のように床へ放り出した。
巨大天使兵はもはや、神の美しさを留めてはいなかった。純白の装甲は剥がれ、剥き出しになった内部からは、神聖な魔力が『虹色の幾何学模様』となって、不気味に、そして美しく脈打っている。
その時だった。
「…………ギ、ギィィ…………」
ボロボロになり、半ば崩壊した天使兵の顔らしき部位が、不気味なうなりを上げた。
残された数多の双眸が、最後の一滴のエネルギーを絞り出すように発光する。次の瞬間、天使兵の瞳から、純白な神聖の光線がルビーに向けて放たれた。
それは、神の威信を賭けた、最後にして最大の反撃。
だが。
「…………へぇ」
ルビーは避けるどころか、身構えさえしなかった。
放たれた光の奔流は、ルビーの肌に触れる直前、不可視の幾何学的な『理』によって完璧に遮断された。
ブライスと魂の契約を結んだ彼女には、主君の権能による『絶対防御』が常に展開されている。神の光といえど、ブライスの論理を塗り替えることは叶わない。
白き光は、ルビーを包む漆黒の結界に触れた瞬間に虚しく霧散した。
「まだ、やるんだ」
ルビーが、ゾッとするような愛らしい笑みを浮かべて一歩踏み出す。
彼女は、うごめく天使兵の頭部に、一切の迷いなく小さな拳を振り下ろした。
ドォォォォォンッ!!
爆音と共に、大理石の床ごと天使兵の頭部が粉砕された。虹色の魔力が弾け飛び、神の兵器はただの動かぬ鉄塊……いや、ただの『モノ』へと成り果てた。
神官たちは、そのあまりに一方的な蹂躙に、声も出せずに立ち尽くした。
「……さて。装甲の下は虹色ですか。悪趣味ですね、女神とやらは」
シュヴァルツが冷たい手袋をはめ直し、剥がれた装甲を靴の先で転がした。
サファイアもまた、露出した虹色の魔力回路を無感情に見下ろす。
「構造が単調だわ。ただの魔力バッテリーね。……見る価値もない」
「悪魔めぇぇッ!! 貴様ら、よくも神の器を……ッ!!」
発光した一人の神官が、狂乱のままに短剣を抜き放ち、シュヴァルツへと躍りかかった。
「殺せ! 私を殺せ! 私は殉教者となり、神の御許へ昇るのだッ!!」
彼らにとって、魔族の手にかかって死ぬことは、信仰の完成を意味する。
だが、シュヴァルツの瞳に宿ったのは、軽蔑ですらない、ただの『処理』への無関心だった。
「我が主に矛を向けた大罪、万死に値する。……だが」
シュヴァルツの影が瞬時に槍の形を取り、神官たちの胸を、正確に、そして慈悲もなく貫いた。
「貴様らに、殉教という『誉れ』など与えはしない。何も感じず、何も遺さず、ただ無価値に消え去れ。……それが、貴様らへの『罰』だ」
シュヴァルツが槍を引き抜くと同時に、神官たちは膝をついた。
痛みさえ感じさせぬほどの、極限の殺気と速度。彼らは自らが死んだことさえ理解できず、神への祈りを完遂することすら許されず、ただゴミのように床に転がった。
殉教の喜びも、神への叫びもない。
ただ、静寂。大聖堂に満ちていた狂信は、三人の悪魔による事務的な処置によって、一瞬にして絶望の静寂へと塗り替えられた。
その時、シュヴァルツの影から、主君ブライスの静かな声が響いた。
『――ご苦労様。……ああ、その虹色のコア、動力源として使えそうだから回収しておいて。あとは全部、燃えないゴミとして処理していいよ』
「御意、マスター」
神官たちが命を懸けて呼び寄せた神の奇跡は、ブライスの手によって、ただの『再利用可能な部品』と『不要な廃棄物』に分類された。
天使の虹色の残骸が、冷たい石造りの床に散らばる。
神の権威は地に堕ち、絶対的な『理』だけが、死に絶えた大聖堂を支配していた。




