虚ろな凱旋
大魔導塔の最上階。
絶対的な死の重圧が空間を支配する中、ブライスは静かに手を挙げ、背後の悪魔たちの殺気を収めさせた。
「待って。彼らをここで殺すのは、あまりにも『非効率』だ。人間国の指導層を一掃してしまえば、残された数万の難民が暴徒化して、統治の手間とコストが無駄に増える」
レオン
「……統治、だと……? 貴様、俺たちをどうするつもりだ……ッ」
床に膝をついたまま、レオンが血を吐くように絞り出す。
ブライスは、宙に吊り上げられたセシリアを見上げ、そしてレオンへと視線を戻した。
「取引をしよう、レオン君。……僕は君に、『勇者としての完全なる勝利』をプレゼントする」
レオン
「……なに?」
「今からこの塔の防衛システムを停止し、魔王軍を国境線まで完全に撤退させる。人間国への不可侵も約束しよう。……君は、魔族の脅威を退け、国を救った『本物の英雄』として凱旋すればいい。生き残った民衆は君を熱狂的に支持し、君は新たな王として君臨するだろう」
それは、レオンが喉から手が出るほど欲していた「希望」そのものだった。
だが、その言葉を紡ぐブライスの瞳には、一切の慈悲はない。あるのは、冷徹なシステム設計者の計算だけだ。
ブライス
「その代わり。君は今後、僕が影を通じて送る『指示書』に一切の反論をせず、完全に従うこと。……人間国は君の顔を使って、僕が裏から管理する。君は、僕というシステムに組み込まれた『優秀な中間管理職』として一生を全うしてもらう」
レオン
「ふざけるな……ッ! 誰が、悪魔の操り人形なんかに……!」
「拒否権はないよ」
ブライスがパチンと指を鳴らすと、ルビーの手から解放されたセシリアが、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
ブライス
「君が僕の指示から一歩でも外れた統治を行えば、その瞬間にセシリアさんの心臓を止める。……言っただろう? 君たちの生存本能や正義感は、利用価値があるって。彼女の命が惜しければ、君は最高の統治者として、民衆のために死に物狂いで働き続けるしかない。……さあ、選んで?」
レオンは、絶望に目を見開いた。
この男は、自分の「民を救いたい」という矜持すらも、管理を放棄させないための『枷』として利用しているのだ。
抗えば、セシリアが死ぬ。そして国も滅ぶ。
レオン
「…………俺の、負けだ……。なんでも、言う通りにする……だから、彼女には手を出すな……ッ」
戦うことすら許されず、レオンは床に額を擦り付けた。
五百の精鋭たちもまた、歯を食いしばり、血の涙を流しながらその場にひれ伏すしかなかった。
数日後。人間国の難民キャンプ。
朝日に照らされた荒野を、レオンと五百の精鋭たちが歩いてくる。
彼らの帰還と時を同じくして、国境を脅かしていた魔族の軍勢が、嘘のように撤退していくのが確認された。
「……勇者様だ! 勇者様が、魔族を追い払ってくださったぞ!!」
「奇跡だ! 神は我々を見捨てておられなかった!!」
「英雄レオン万歳!! 人間の希望に、歓崎を!!」
数万の難民と兵士たちが、涙を流し、互いに抱き合いながらレオンたちを熱狂的に出迎えた。
だが、誰一人として笑顔の者はいない。五百の精鋭たちは皆、深くフードを被り、ただ無言で俯いている。
仲間
「……レオン。笑えよ。俺たちは……勝ったんだ。英雄になったんだから」
傍らを歩く仲間が、虚無に染まった瞳で囁く。
レオン
「ああ……そうだな。俺たちは、勝ったんだ……」
レオンは、乾ききった顔に無理やり笑顔を貼り付け、民衆に向かって手を振った。
「ありがとう!」「救世主様!」という純粋な感謝の声が、レオンの鼓膜を容赦なく叩き潰す。
彼らは知らないのだ。自分たちが熱狂しているこの『英雄』が、裏では国と聖女を売り渡し、魔族の首魁に魂を握られた哀れな操り人形(システムの一部)に過ぎないということを。
歓声が大きければ大きいほど、レオンの心は冷たく、どす黒い絶望に沈んでいった。
一ヶ月後。人間国・臨時王宮。
新たな統治者として執務室に座るレオンの足元から、音もなく『影』が這い上がり、一通の羊皮紙を机の上に吐き出した。
影(念話)
『主様からの今月の指示書です。国境付近の良質な農地および水源を含む一帯を、「エルフの自治区」として無条件で割譲すること。書類に署名を』
レオン
「……ッ、ここを渡せば、人間の食料自給率が大きく低下する。こんな理不尽な要求、民が納得するはずがない!」
影(念話)
『あなたは英雄です。英雄が「平和のための代償だ」と説得すれば、愚かな民は必ず従います。それが、あなたの役割(仕事)でしょう? それとも……セシリア殿の命は、その程度の価値ですか?』
レオンは奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、震える手でペンを握った。
そして、自国の首を絞めるその書類に、英雄としてのサインを刻み込んだ。
指揮系統の最底辺に組み込まれ、ただ指示を忠実に実行するだけの機械。それが、勇者レオンの現在の姿だった。
魔族領、ブライスの屋敷。
ブライス
「うん、レオン君は本当に優秀だ。エルフの自治区拡大もスムーズに承認された。これで人間国の管理コストは実質ゼロだね」
ソファで書類を眺めるブライスは、心底満足そうに頷いた。
セシリア
「……おかわりは、いかがでしょうか」
傍らには、完璧なメイド服に身を包んだセシリアが立っていた。
彼女の瞳からは、かつての神聖な光も、反逆の意志も完全に失われている。機械のように正確で、美しい所作でティーポットを傾けるだけの、虚ろな人形。
彼女は完全に理解していた。
自分が生きている限り、レオンは永遠にブライスの奴隷として人間国で苦しみ続ける。しかし、自分が自死を選べば、ブライスは容赦なく人間国を物理的に消し去るだろう。
彼女の存在そのものが、勇者を縛り付ける最強の呪いとして機能しているのだ。
ブライス
「ありがとう、セシリアさん。君の紅茶は、今日も完璧だね」
絶望の螺旋構造の中で、絶対的な強者だけが優雅に微笑む。
狂気的なまでに洗練された、支配のシステム。
盤上のゲームは、ブライスの完全なる「チェックメイト」によって、一つの残酷な結末を迎えたのだった。




