偽りの福音
「……君、情報偽装の才能はある。でも、詰めが甘いよ」
ブライスのその一言で、執務室の温度が氷点下まで下がった。
セシリアは指先一つ動かせず、ただ大きく見開いた瞳でブライスを見つめることしかできない。
「やめ……」
「いいや、やめないよ。せっかく君が構築したこの『影の通信回路』、捨てるにはあまりに惜しい。……お借りするよ、セシリアさん。君の魔力をね」
ブライスが指を鳴らす。
固有スキル『万象の演算』。
この世界に存在するあらゆる魔力、事象、そして論理を強制的に再定義し、書き換える絶対権能。
セシリアが命を削って影に潜込ませた「聖なるノイズ」は、ブライスの指先が触れた瞬間、どす黒い支配の魔力へと反転した。通信網の制御権は、一瞬にしてブライスの掌中へと落ちる。
ブライスは、泣き崩れようとするセシリアのすぐ傍らで、レオンの持つ守り石へと『偽りの暗号』を送信し始めた。
『――レオンさん、聞こえる? 監視網の解除に成功しました。大魔導塔の防御結界は今、一時的に消失しています。……そのまま突入して。これが、私たちの最後のチャンスよ』
セシリア
「やめて……ッ! やめてぇぇッ!! 私の祈りを……私の通信を、彼を殺すために使わないで!!」
セシリアが喉を掻き切らんばかりに叫ぶ。
だが、ブライスは表情一つ変えず、淡々と、事務的に送信を完了させた。
ブライス
「よし。……あとの掃除は、君たちに任せていいかな?」
シュヴァルツ
「御意。主様の期待に応えられぬばかりか、不遜な裏切りを画策したこの小娘……徹底的に『教育』して差し上げましょう」
深夜。人間国の勇者レオンは、歓喜に震えていた。
背中の守り石から届いた、セシリアの(偽りの)メッセージ。
レオン
「聞いたか! セシリア様が道を切り拓いてくれた! 総員、突撃!! 大魔導塔を制圧し、この戦争を終わらせるんだ!!」
上下黒、あるいは明るいグレーのフード付き特装服を纏った五百の精鋭たちが、夜の闇を裂いて疾走する。
金属音一つしない、完璧な隠密行動。レオンは確信していた。今、自分たちは歴史を動かす『奇跡』の真っ只中にいるのだと。
だが、彼らが大魔導塔の重厚な扉を蹴破った瞬間。
そこに広がっていたのは、手薄な防衛陣地などではなかった。
レオン
「……え?」
塔の最上階。
そこには、焚き火の代わりに『影の魔力』が渦巻き、その中心で、優雅に椅子に腰掛けて紅茶を飲むブライスの姿があった。
そして、その背後。
レオン
「セ、セシリア……様……?」
レオンの喉から、ヒュッと空気が漏れた。
そこには、ブライスのスキルによって生み出された『不可視の縛鎖』によって、全身を幾重にも、蜘蛛の巣のようにグルグル巻きにされ、自由を奪われたセシリアの姿があった。
彼女は、あまりの屈辱と絶望に顔を歪ませ、涙を流している。
その彼女の白銀の髪を、ルビーがまるで「道端のゴミ」を摘み上げるかのように無造作に掴み、宙に吊り上げていた。
ルビー
「あはは! 見てよブライス様、この勇者。自分から処刑場に飛び込んできちゃった。本当にバカみたい!」
レオン
「き、貴様ぁぁぁッ!! よくもセシリア様を……ッ!!」
怒り狂い、剣を抜こうとするレオン。
だが、その背後に控えていたシュヴァルツ、ヴァイス、サファイアの三人が、瞬時にその圧倒的な殺気を解放した。
一歩も動けない。重圧だけで、五百の兵士たちの膝が次々と地面に叩きつけられる。
ブライス
「お疲れ様、レオン君。……せっかくの実用的な装備も、泥だらけになっちゃったね。あ、そんなに怖い顔で見ないでよ」
ブライスは、冷めかけた紅茶を一口飲み、淡々と言い放った。
ブライス
「僕は、怒っていないよ。君たちが必死に抗うのは、生存本能として『合理的』な行動だからね。……でも。君たちが僕の『管理コスト』を無駄に増やした事実に、この子たちが納得するかどうかは、僕にも分からないけどね」
シュヴァルツが、冷酷な笑みを浮かべて一歩前へ出る。
ヴァイスが影の刃を研ぎ、サファイアが冷たい瞳でレオンの絶望を観察する。
セシリア
「逃げて……レオンさん……お願い、逃げて……っ!!」
髪を掴まれたまま宙で悶えるセシリアの叫びは、ブライスの平然としたティータイムの音に掻き消されていく。
勇者が掴んだ「希望」の正体は、絶対強者が用意した「効率的な処刑台」への招待状でしかなかったのだ。
レオン
「…………あ……」
レオンの手から、剣が滑り落ちる。
黒とグレーの機能的な服に身を包んだ精鋭たちは、戦うことすら許されず、ただブライスの盤上から取り除かれるのを待つだけの「汚れた駒」へと成り果てていた。




