盤上の盲点
夜の静寂に包まれた魔族領、ブライスの屋敷。
かつて聖女と呼ばれたセシリアは、薄暗い回廊で一人、床の黒耀大理石を磨いていた。
メイドとしての献身的な姿。だが、彼女の瞳の奥には、冷たく研ぎ澄まされた光が宿っている。
セシリア
「(……微かに、ほんの微かに。女神の加護を、極限まで薄めて流し込むのよ)」
彼女の足元には、ブライスが放った《影の監視者》が常に張り付いている。
セシリアは、雑巾をかける動作に紛れさせ、自らの魔力――聖なる浄化の力を、影の魔力波長に同調させるように、少しずつ、少しずつ浸透させていた。
影を破壊してはならない。それは「敵対行為」として即座にブライスに伝わる。
彼女が行っているのは破壊ではなく、『汚染』であり『上書き』だ。
ブライスの構築した完璧な監視ネットワークという名の「インフラ」に、ノイズとして自らの暗号通信回路を寄生させているのだ。
セシリア
「(ブライス様……あなたはあまりにも論理的で、賢すぎる。だからこそ、自分の構築したシステムが『完璧』だと信じて疑わない。その傲慢さが、あなたの唯一の死角よ)」
同時刻、屋敷の執務室。
ブライスは、ふかふかのソファに沈み込み、目を閉じて世界中から送られてくる影の報告を脳内で処理していた。
影(念話)
『――主様。セシリアの監視報告です。本日も異常な行動はなし。教国の機密資料の整理と、メイドとしての清掃業務を忠実にこなしております』
ブライス
「ご苦労様。……ん? 彼女の影の波長に、少しノイズが混ざってるな」
ブライスは微かな違和感に気づき、目を開けた。
影(念話)
『申し訳ありません。対象が元々持つ「女神の加護」の残滓が、我ら悪魔の魔力と微弱な反発を起こしている模様です。監視に支障はありません』
ブライス
「なるほど。システム上のバグみたいなものか。彼女も完全に魔力(信仰)を捨てきれたわけじゃないんだろうね。まあ、実害がないなら放っておいていいよ。監視の深度レベルを一段階下げて、教国側の動向監視にリソースを回して」
ブライスは、ティーカップを傾けながら満足げに微笑んだ。
ブライス
「(彼女は賢い。論理的に、僕に逆らうことが無意味だと完全に理解した。一度心が折れ、管理下に置かれた駒は、二度と盤面をひっくり返すような動きはできない。……あとは、勇者レオンがどこまで道化を演じてくれるか、だな)」
絶対的な管理者としての自負。
それが、ブライスの目を曇らせていた。彼が今見ている「忠実な聖女のデータ」こそが、セシリア自身によって緻密に編集・偽装された『見せかけの報告書』であることに、彼は全く気づいていなかった。
一方、人間国の最前線。
冷たい雨が打ち付ける泥濘の陣地で、勇者レオンは一人、天幕の中で剣を抱きしめていた。
あの村で、メイド服を着たセシリアに完全に拒絶された記憶が、彼の心をどす黒い絶望で塗りつぶそうとしている。
レオン
「(俺は……間違っていたのか。教国からの支援も、俺の戦術も、すべてあの魔族の掌の上だった。俺が戦えば戦うほど、セシリア様が、人間が傷つく……)」
その時だった。
レオンの胸元で、セシリアから別れ際に投げつけられた「聖女の守り石」が、微かに、規則的な光を明滅させ始めたのだ。
レオン
「……なんだ? この光の点滅は……」
レオンは息を呑んだ。
短い光と、長い光の組み合わせ。それは、かつて教国の聖騎士団と勇者パーティーだけが共有していた、極秘の『神聖暗号(モールス信号のようなもの)』だった。
レオン
「(……『ほ』……『し』……『の』……『お』……『か』……?)」
レオンは、震える手で紙とペンを取り、光の点滅を必死に書き留めていく。
『ホシノオカ(星の丘)ニアツマレ』
『キボウハ、マダ、オレテイナイ』
レオンの目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。
レオン
「……っ! ああ……ああッ! セシリア様……!!」
彼女は、屈服などしていなかった。
あの絶望的な状況下で、ブライスの目を欺き、魔族の監視網そのものを利用して、自分にだけ届く「反攻の合図」を送ってきてくれたのだ。
レオンの心に巣食っていた絶望の泥が、強烈な熱を帯びて焼き尽くされていく。
もう、迷いはない。自分は操り人形ではない。彼女が命懸けで繋いでくれたこの盤上の「裏ルート」を使って、必ずあの傲慢な魔族の喉首を掻き切ってみせる。
再び、魔族領。
執務室のドアがノックされ、セシリアが静かに入室してきた。
セシリア
「ブライス様。夜食の準備が整いました。本日は、温かいコンソメスープです」
ブライス
「ありがとう、セシリアさん。……うん、すっかりメイドの立ち振る舞いが板についてきたね。教国の方も、君のおかげで無駄な反抗をせずに大人しくしているよ」
ブライスは、運ばれてきたスープをスプーンですくいながら、心底楽しそうに笑いかけた。
セシリア
「もったいないお言葉です。私はただ、無意味な犠牲を出さないための、最も『合理的』な選択をしているだけですから」
セシリアもまた、完璧なメイドの笑みを浮かべて一礼する。
二人の間には、穏やかで温かい空気が流れていた。
だが、その水面下では、互いの命と矜持を賭けた、恐ろしく冷酷な心理戦がすでに火花を散らしている。
絶対の支配を確信する「管理者」と、そのインフラの奥底に毒を仕込んだ「聖女」。
いよいよ、ブライスの計算外からの一撃――真の『反攻作戦』の幕が、静かに開こうとしていた。




