偽りの福音
人間国の辺境、泥濘の広がる野戦司令部。
レオンは、震える手で羊皮紙を握りしめていた。そこには宗教国家アルカディアの教皇による直筆のサインと、大規模な食料支援、さらには治癒魔導師派遣の約束が記されていた。
レオン
「……通った。本当に、支援が通ったのか」
第一部隊長
「レオン殿! やりましたな! これで我が軍は餓死を免れる。教皇猊下も、あなたの必死の嘆願に心を動かされたのでしょう!」
「ああ……。だが、浮かれてはいられない。支援物資が届くまでの補給路を確保しろ。それから、届いた食料は兵士だけでなく、近隣の難民キャンプへも優先的に回すんだ」
第一部隊長
「はっ! ただちに手配いたします!」
部隊長が歓喜に湧く天幕を後にすると、レオンは力なく椅子に深く腰を下ろした。
天幕を叩く雨音だけが、不気味なほど大きく響いている。
レオン
「(……おかしい。あまりにも、話が出来すぎている)」
レオンは一人、机に広げた地図を見つめながら呟いた。
宗教国家の教皇は、利己的で欲深い男として知られている。無能の烙印を押された自分のような「落ちこぼれの勇者」が送った親書に対し、これほど迅速に、かつ好条件で応じるはずがないのだ。
レオン
「(俺が気づいていないだけで、何か見落としているのか? もしかして、魔族領の奴らが何か……いや、そんなはずはない。奴らにとって、人間国が再建されるのは不都合なはずだ)」
レオンは首を振り、雑念を払った。
今の自分にとって、この「奇跡」の理由を疑う余裕などない。目の前の数万の命を救うためには、それが神の慈悲であろうと、悪魔の罠であろうと、縋るしかないのだから。
数日後。
レオンの指示によって、最前線の防衛線には教国からの支援物資を積んだ馬車が次々と到着し始めていた。
空腹に喘いでいた兵士たちに温かい食事が振る舞われ、泥だらけの陣地に、束の間の活気が戻る。
兵士A
「勇者様! ありがとうございます! これでまた戦えます!」
兵士B
「あいつら王族や将軍は真っ先に逃げたが、レオン様だけは俺たちを見捨てなかった。俺は、あんたに一生ついていくぜ!」
「……礼を言うのは、食料を届けてくれた教国の者たちにしてくれ。俺は、当たり前のことをしただけだ」
レオンは無理に微笑みを作り、兵士たちの肩を叩いた。
だが、兵士たちが自分に向ける「期待」と「信仰」の眼差しが、今の彼には何よりも重く、鋭い刃のように感じられた。
レオン
「(俺は、嘘をついている。みんな、俺を『英雄』のように見ているが……俺にはあいつらのようなチート能力なんて何一つない。知略だって、ただの借り物だ。俺が一度でも判断を誤れば、この数万人は一瞬で死ぬ……)」
その時だった。
レオンの足元、篝火に照らされた不自然に長い『影』が、微かに蠢いたような気がした。
レオン
「……っ!? 誰だ!」
レオンは瞬時に剣を抜き、背後を振り返った。
しかし、そこには降り続く雨と、疲れ果てて眠る兵士たちの姿があるだけだ。
仲間
「どうしたんだ、レオン? 急に剣なんか抜いて」
レオン
「……いや、なんでもない。気のせいだ。……少し、疲れが溜まっているのかもしれない」
仲間
「無理すんなよ。お前が倒れたら、この国は本当に終わりなんだからな」
仲間のその言葉は、レオンにとって救いではなく、逃げ場のない監獄の鍵のように聞こえた。
王族は全滅。軍のトップも消えた。
頼れる外交ルートも、物資のツテも、自分一人の肩にかかっている。
誰にも弱音を吐けず、誰にも背中を見せられない。
レオンは、数万の人間を背負いながら、暗闇の中でただ一人、綱渡りを続けていた。
レオン
「(俺は、戦う。たとえこの先にあるのがさらなる絶望だとしても。……俺を救ってくれたあの古代竜に、いつか胸を張って『俺は人間を守り抜いた』と言えるまでは)」
勇者レオンの覚悟は、どこまでも気高く、そしてどこまでも悲しい。
彼はまだ知らない。
自分が死に物狂いで構築したこの『希望の砦』が、ブライスの屋敷で供される「紅茶の温度」を変えるほどの価値さえ持たない、ただの玩具に過ぎないということを。
レオンが天幕に戻り、冷え切った地図にペンを走らせるその影で、ブライスの《監視者》は、彼の苦悩の表情さえも楽しむように、静かにその一部始終を魔族領へと送り続けていた。




