盤上の騙し合い
宗教国家『聖都アルカディア』。
大聖堂の最奥、教皇の執務室から出てきた白銀の髪の少女――聖女セシリアは、分厚い扉が閉まった瞬間、その黄金の瞳を細くした。
異端審問官
「セシリア様。教皇猊下のご様子は……」
セシリア
「ええ。勇者レオンへの過剰な物資支援……やはり、猊下ご自身の意思ではありませんでした。猊下の足元の『影』に、極めて高度な隠蔽術式が施された魔族の使い魔が潜んでいます」
「なんと……! すぐに浄化の結界を張り、その影を焼き祓いましょう!」
「駄目です。そんなことをすれば、『我々が監視に気づいた』という情報が敵に伝わってしまいます。……敵は、世界を盤上に見立てて遊んでいる不遜な輩。ならば、その遊戯盤を逆手に取ります」
セシリアは冷たく微笑むと、手元の聖書を開いた。
「教皇猊下の部屋に戻り、あえてあの影に『聞かせる』のです。……我々が、魔族に対抗するための最終兵器『女神の聖櫃』を、今夜、手薄な西の『残響の谷』を通って極秘に輸送する、と」
「……っ! なるほど。偽の超重要機密をわざと流し、監視している敵を罠に誘い込むのですね。ただちに『残響の谷』に異端審問特務隊を伏せさせ、神聖魔法による巨大な殲滅陣を敷かせます!」
セシリア
「ええ。どれほど絶大な魔力を持っていようと、情報を鵜呑みにして罠に飛び込んでくるようなら、ただの愚か者。……私利私欲にまみれた教皇を操るのは簡単だったでしょうが、私はそうはいきませんよ」
『女神の真眼』を持つ聖女の、完璧な逆探知と偽装工作。
彼女は「相手が監視している」という事実そのものを利用し、見えない敵への致命的なカウンターの罠を張ったのだった。
同時刻。魔族領、ブライスの屋敷。
影(念話)
『――主様。聖都の教皇と聖女の会話を傍受しました。今夜、西の「残響の谷」にて、魔族に対抗しうる兵器「女神の聖櫃」を極秘輸送するとのことです』
ブライス
「……なるほど。ご苦労様」
執務室のソファで念話を聞き終えたブライスは、シュヴァルツが淹れた紅茶のカップをゆっくりとソーサーに置いた。
その表情には、焦りも驚きもない。ただ、静かな思案の光が宿っている。
サリエラ
「どうしたの? また人間国で面白い動きでもあった?」
「ええ。宗教国家の『聖女』とやらが、今夜、西の谷で最終兵器を極秘輸送するそうです」
「最終兵器!? ちょっと、それまずいじゃない! すぐにガランやヴォーグたちを向かわせて、谷でその兵器を奪い取らないと……!」
サリエラが慌てて立ち上がるが、ブライスは静かに手でそれを制した。
ブライス
「行きませんよ。……罠ですから」
「は? 罠?」
「ええ。不自然なんです。彼らは昨日、勇者レオンに対して『冬を越すための大規模な食料支援』を約束したばかりです。国庫に余裕がないこのタイミングで、さらにコストのかかる最終兵器の輸送を、わざわざ防衛の手薄な谷で行う理由がない」
ブライスの脳内で、世界地図と敵の心理状態が恐るべき速度で計算されていく。
ブライス
「それに、僕の影の隠蔽術式は完璧です。普通の魔術師なら百年かけても気づかない。……ですが、あちらには『女神』の加護がある。おそらく、聖女は僕の影の存在に気づいた上で、あえて泳がせているんです」
サリエラ
「気づかれた上で、偽の情報を掴まされたってこと!? じゃあ、その『残響の谷』には……」
「間違いなく、僕の軍勢を消し飛ばすための大規模な伏兵と、神聖魔法の罠が張られているでしょうね」
ブライスの言葉に、傍で控えていたシュヴァルツが眉をひそめた。
シュヴァルツ
「小賢しい人間どもめ……! 我ら神級悪魔が出向き、その罠ごと谷を消し飛ばしてまいりましょうか!」
「それだと、結局相手の土俵(罠)に乗ることになります。……盤上の勝負を仕掛けてきたなら、同じ盤上で、完全に心をへし折ってあげないと」
ブライスは薄く笑い、足元の影に向かって新たな命令を下した。
ブライス(念話)
『――《黒影空挺打撃群》へ通達。今夜の作戦を伝達する』
深夜、宗教国家の西に位置する『残響の谷』。
冷たい風が吹き抜ける谷の底で、聖女セシリアは五百人の異端審問特務隊と共に、息を潜めていた。
谷の四方には、触れた魔族を光の粒子に変える超高位の殲滅陣が、何重にも展開されている。
異端審問官
「セシリア様……。来ました。谷の上空に、巨大な飛竜の群れです!」
月明かりを遮るように、数十頭の火竜の影が谷の上空へと飛来した。
セシリア
「(……かかりましたね。これほどの数、間違いなく敵の主力部隊。我々の罠に、見事に引っかかってくれました)」
セシリアが勝利を確信し、殲滅陣の起爆呪文を唱えようとした――その瞬間だった。
彼女の足元に影から、突如として『少年の声』が響き渡った。
『――こんばんは、聖女さん。夜更かしは肌に悪いですよ』
セシリア
「なっ……!? 声が、直接……っ!?」
『あなたの仕掛けた情報の罠、とても見事でした。僕の影の存在に気づき、あえて逆探知を利用して谷に誘い込む。完璧な手筋です』
セシリアの背筋に、これまでに感じたことのない強烈な悪寒が走った。
罠だと見抜かれている? ならばなぜ、上空に主力部隊をよこしたのか?
『罠だと分かった上で、あえて火竜たちをそちらに向かわせました。……だって、あなたがこの谷に五百人の精鋭を連れて伏兵している間、聖都の守りは、今、空っぽでしょう?』
セシリア
「まさかっ……!!」
セシリアが顔を青ざめさせ、谷の方向ではなく、背後にある聖都アルカディアの方角を振り返った。
ドズォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
地鳴りのような爆音と共に、遠く離れた聖都の空が、真昼のように明るく燃え上がった。
『火竜たちは、ただの囮です。あなたが谷で空を見上げている間に、僕の《影の工兵部隊》が、手薄になった聖都の「大兵器庫」をすべて爆破させてもらいました』
セシリア
「あ、あぁ……っ……!」
『情報を鵜呑みにして罠に飛び込むのは愚か者……でしたっけ。僕もそう思います。盤上の勝負は、僕のチェックメイトです。……じゃあ、おやすみなさい』
通信が一方的に切れ、上空にいた火竜の群れも、嘲笑うかのように旋回して引き返していく。
谷の底で、セシリアはその場に崩れ落ちた。
敵を嵌めたつもりが、その行動すら完全に読まれ、自分から本拠地の守りを手薄にするという「最悪の悪手」を打たされていたのだ。
セシリア
「……完敗、です……。悪魔……いえ、あれは……神の領域の知能……」
圧倒的な力を持つだけでなく、知略においても次元が違う。
『黒影の四天王』ブライスの底知れぬ恐ろしさが、人間国の裏のトップである聖女の心を、完全にへし折った瞬間だった。




