第二章
教皇国オスピリアの中央大市場の路上で、二つの人影が泥泥の取っ組み合いを演じていた。
一方は、神々がこの世に遣わした代理人、光の教廷の教皇ユリウス・セント・ヘレンズ。
もう一方は、郊外の小さな村に暮らし、毎日街へ野菜を売りにやってくる無名の老農夫。
足して百五十歳を優に超える老人二人が、これ以上ないほど不躾で泥臭い手法で取っ組み合っている。髪を引っ張り、髭をむしり、顔を押し合い肉をねじる。現場は大混乱だった。
その時、不意に老農夫が何かを悟ったかのように、一瞬だけ動きを止めた。その隙を見逃さず、光の教皇の重い一撃がクリーンヒットする。老農夫の右目は瞬く間に黒く腫れ上がった。
だが、この老農夫もただ者ではなかった。ひらりと宙を舞うように身を翻すと、さらに一本足の構えから追撃を仕掛けようとした教皇を容赦なく蹴り倒した。そのまま馬乗りになって右ストレート、左フックと、拳の感触が肉にめり込むほどの猛連打を浴びせ、教皇の顔を完全に老いぼれた豚の頭のように変形させた。そして仕上げとばかりに、強烈な一蹴りで彼を遥か彼方へと吹き飛ばした。
吹き飛ばされ、路地裏の角まで滑っていった教皇は、腫れ上がった豚面で激しく息を切らしながら呻いた。
「お、お前……これ、こんなこと、あり得るはずが……っ! 私は幼少期から神術を極めてきたというのに、なぜただの農夫に敗北など……! 一体、それは何の流派の招式だ……!?」
老農夫は不敵に、そして蔑むような笑みを浮かべて言い放った。
「ただの田植え(莊稼)で鍛えた体術さ。お前みたいな魔法職の分際で、この俺と前衛の近接戦闘をやろうなんて、ハナから正気か?――まあ、また会う日まで、おさらばだべ!」
突如として始まった老人たちのデスバトルに呆然と立ち尽くしていた教皇の侍従官や聖騎士団の連中が、ここでようやく我に返った。大慌てで路地の角に転がっている教皇を抱き起こし、回復神術を湯水のように浴びせる。そうしてようやく、今にも息を引き取って昇天しそうだった教皇の息を吹き返らせた。
「せ、聖遺物は……どうした?」
「へ? は、はい?」
この使えない侍従官の顔を見つめ、教皇は我慢できずにその脳天を思い切り引っ叩いた。
「『へ?』じゃなーーいッ! あの忌々しい糞桶(挑糞桶)のことだッ!! ただちに兵を出して力ずくで奪い返してまいれ! ……ただし、けが人は出すなよ。分かったな?」
それからしばらくの後。
遥か遠くから、やたらと中気の利いた怒号が市場に響き渡った。
「人殺しだべーーー! 教会の騎士様たちが強盗だべーーー!! 誰かこの天涯孤独の哀れな老人を助けてけろーーー! あ痛っ、顔は殴るなだべ!!」
教皇は顔を引きつらせながら馬車へと乗り込んだ。
(――二度と、あの農夫の顔など見たくもない……!)
心の中でそう固く誓いながら。
******
生命の女神教団。それは、何とも言えない微妙な立場に置かれた教会である。
彼らが専門とする治癒神術は、光の教廷のそれと大部分が重複しているため、信仰の面では常に圧迫され続けていた。しかし、治療のメカニズムが異なること、そして何より『治療費が安い』ことから、平民たちの間では一定の根強い支持を集める存在でもあった。
※ちなみに、光の神術による治療は「神力で直接、傷病の部位を消し去る(書き換える)」という、どちらかといえば【西洋医学】に近いアプローチである。
対する生命の神術は「傷病の部位に対してピンポイントで理学療法(理療)を施し、自然治癒力を爆発させて完治させる」という、どちらかといえば【東洋医学】に近いアプローチであった。
ある日のこと。
日常の布教活動を終えた生命の女神教団の主祭、アブリス・セント・デヴァンダルは、柔和な笑みを浮かべながら周囲の子供たちと談笑していた。
すると、一人の子供が無邪気に問いかけた。
「主祭のおじいちゃん。どうして他の教会の主祭様はみんな神様と同じ男の人か女の人なのに、僕たちの教会だけ他と違って、おじいちゃんなの?」
その子供は知る由もなかった。自分がこの質問を口にした瞬間、それまで「慈愛あふれるおじいちゃん」だった主祭の画風が、一瞬にして――
『ジョジョの奇妙な冒険』のような超劇画タッチへと変貌したことを……!
主祭は両目から血の涙を流し、絶望の咆哮を上げた。
「なぜだとぉぉぉ!? そんなもの、大衆の面前で【大人のマッサージ棒】を高く掲げて神術をぶっ放す度胸のある女性神官が、うちの教団に一人もいやしねえからに決まってるだろォォォアアアアアッ!!!」
五百年だ! 生命の女神教団が設立されてからの五百年間、歴代の主祭たちが溜め込んできた理不尽な屈辱が、今日という日に一気に大爆発したのだ。
主神からの日に日に厳しくなる「なぜ女性主祭が見つからないのか」というお叱り。他の教会から向けられる「あいつら、男のくせに毎回あの棒を掲げて何やってんだ」という奇異の目。そして聖遺物を取り出すたびに、仕様上「絶対に神光のエフェクトをオフにできない」という戦々恐々としたプレッシャー。
それらの全てが、ついにアブリスの精神を完全に崩壊させた……。
突然、作画崩壊を起こした主祭のおじいちゃんを前に、どうしていいか分からず固まる子供たち。
すると、傍らにいた教会のシスターたちが非常に手慣れた様子で、子供たちを優しく宥めながら隣の福祉施設へと連れて行った。
「かわいそうに。また一人狂っちゃったわね。うちの教団の主祭、ここ最近誰も十年と持たないわ。このままで本当に大丈夫かしら……」
「その時はまた、どこからか適当な身代わりを引っ張ってきて上に据えればいいじゃない。まさか貴女、自分が例の『聖遺物』を掲げて街で説教したいわけ?」
「ええと……女神様への信仰はこれ以上ないほど揺るぎないものだけど、その件に関しては、謹んでお断り申し上げたいわ」
「なら決まりね。さあご飯にしましょう。美味しいものを口に詰め込んで、その無駄口を塞ぎなさい」
歴代の生命の女神教団の主祭たちは、全員が深刻な精神疾患を抱えている。
これは、他のすべての宗教団体にとって「なぜ病理学において大陸一を誇る生命教団のトップが、揃いも揃ってメンヘラばかりなのか」という、理解不能な公然の秘密であった……。
☆次回予告】
格闘の国としてその名を世界に轟かせる『闘盟帝国』にて、年に一度の戴冠大典が執り行われる。
大典の目玉として展示されるのは、なんと闘神の聖遺物――その名も『聖闘士の衣』!
次回もどうぞ、ご期待ください。




