婚約者
「お前に、婚約者を返してやろう」
五百年前、女神はそう言った。血だまりの中、シロから壁際に追い詰められ、切っ先を向けられた状態で。
同胞たちにより手厚く葬られた婚約者。肉体は生きていた時と同様に綺麗なまま、硬質硝子で出来た棺に横たえられている。
長老神は、処刑したのだ。婚約者から預かっていた命宝を、粉々に砕くことで。ただ割るだけでは飽き足らず、彼は彼女の命を何度も何度も叩いて粉々にした。
もう二度と、彼女は動かない。シロに笑いかけてくれない。名前を呼んでくれることもない。
あの、優しく涼やかな声で。
「返してやっても良い。ただし、お前の望む通りにはならぬ」
「……返す? どうやって」
返り血で全身を赤く染めたシロは、いっそ穏やかな表情すら浮かべている。
「お前の命を分け与えればよい」
そう言って、女神は自身の胸の前でゆっくりと拳を握る。それを開くと、なにもなかった空間に薄紫色に輝く石が出てきた。
「!」
見たことがある。それは、シロの命宝だ。
「…どうするつもりだ」
当然、この石を砕けばシロは死ぬ。怖くはなかった。婚約者がいないこの世界で、独りで生きていくことの方が怖い。そんな生には、なんの意味も無い。
「見ておれ」
女神が両手を合わせ、そっと開く。ややあってから、シロの命宝がほわりと二つに割れた。
「………」
それから、女神は割れた片方の石を人差し指で婚約者のほうへ押し出した。ふよふよと漂っていた命宝は、音も立てずにすっと婚約者の身体に入っていった。
やがて、婚約者の身体が光り出す。
「これで、目を覚ます」
信じられないものを見る目で、シロは婚約者を見ていた。
動く。
…動くのか。もう一度、彼女が。
「この術は禁忌」
静かに、しかしはっきりと女神は言った。
「本来一人に一つだけの命を他人に分けるなど、あってはならぬ。この術が使えるのも、神の生涯で一度だけじゃ。知っておろうが、本来は、分裂して子を生す時に使う。これでもう、わらわは一人では子は生せぬ」
「……何が言いたい」
「お前の婚約者はお前に返してやろう。ただし、対価としてそやつの記憶はわらわがもらう」
女神は笑った。凄絶なまでに。
「この世界はすべてが平等。そなたはこの女を奪われた。じゃからわらわから仲間を奪った。しかし女は返してやる。ならば、そなたも何かを差し出すべきじゃ。そうであろう?」
詭弁ともいえる女神の言葉を、シロは黙って聞いていた。ただ、横たわる婚約者の、光る身体を見ていた。
「じゃが、まったくの記憶無しというのも興が覚めてしまう。……そう、例えば」
婚約者を包む光が収束していく。
「自分を、そなたの妹と思い込む、というのはどうじゃ?」
ぱちん、と女神は指を鳴らした。すると、婚約者の額から命宝よりももっと小さい藍色の玉が出てきた。
「これは、そやつの記憶。わらわが預かっておこう。そやつはそなたを兄だと思い、そなたは男女の愛ではなく兄妹の愛を受ける。この先ずぅっと、兄妹として生きていくがよい。もう二度と、そなたは想いを遂げることは叶わぬ」
くつくつと、女神は笑った。
「それでも手を出すか? 兄と信じている者からそのような仕打ちを受けた女が、まともに生きていけるとは思わんが。ついでに、そなたには別の想い人がいるように思い込ませたら楽しそうじゃ」
ああ、それと、と女神は続ける。
「本来の命宝の持ち主であるそなたがこの女から三日以上離れれば、術の効果は無くなり、女に入れた命宝は砕けるであろう。それでも、もう一つの命宝がわらわの手にある限り、そなたは死ぬことも出来ぬ。再び肉塊となった婚約者を抱いて、独りで生き続けるがいい」
「…貴様…!」
「あろうことか、そなたは神々に剣を向け同胞までをもその手に掛けた。辺りを見ろ、血の海じゃ。そなたが作った、しかしそなたの血は無い海じゃ。これだけのことをしでかして、よもやただで済むとは思っておらぬであろう?」
シロは、下げていた剣先を再び女神の喉に突きつけた。瞳に炎を宿らせ、殺気を辺りにまき散らす。
「言っておくが、わらわが死ねばこの術は解ける。その時はそなたの命宝はそなたの元へ帰るであろうが、婚約者は助からぬ。どの道、そなたは孤独を極める」
シロは歯噛みした。
斬ることが、出来なかった。
何故ならそこに、婚約者が上半身を起こしていたからだ。
「記憶が無いのも、この女にとっては良いことなのかもしれぬ。せっかく自らの命を賭して長老を鎮めたのに、婚約者であるそなたが台無しにしたのじゃ。一番そやつの意を汲むべきそなたが」
婚約者は、焦点の合わない眼でしばらく辺りを見回していた。
生きていたときとなんら変わらぬ姿。瞳。髪の色。しばらくぼうっとしていたが、やがてゆっくりとシロに視線を合わせてきた。
視線が絡み合った瞬間、剣を持つ手から力が抜けた。
「……クロ…」
愛しい名前をつぶやいた時には、血塗れの剣はからんと音を立てて床に落ちていた。




