血が
――ごめん、ね?
最期に彼女はそう言った。
いまだに、五百年も前のことを夢に見る。
夢の中で、シロは何度も何度も彼女を失う。
そうして、何度も何度も同胞たちを、神々を手に掛ける。
シロの全身には彼らの返り血がべったりと付いており、洗っても拭っても消えることはない。おそらく、この先一生消えないままだろう。
いつもは赤く染まった自分の手を見ていると目が覚めるのだが、今晩は違った。
目の前に、少女がいた。黒く大きな瞳で、まっすぐにシロに笑いかけている。その少女をシロは抱き上げようとする。血の付いた両手で。
シロは、少女を血で穢すのだ。
「―――!!」
目を開けると、外はまだ真っ暗だった。
上半身を布団の上に起こして荒い息を抑えつつ、シロは左側を見る。そこには、ミーコとクロがいる。二人とも起きる気配は無い。良かった、と思った。
ミーコが散々泣いたのち、つられて泣いていたクロが今日は三人で寝ようかと提案したのだ。もちろんシロは良い顔をしなかったが、ミーコにじっと見つめられて仕方なく折れた。
しかしクロの部屋に入る気にはなれなかったので、結果的にシロの部屋で、ミーコを挟むようにして三人で横になったのだ。シロの家には二人分の布団しかないので、ミーコとクロは今日も同じ布団で寝ている。
泣き疲れたのだろう、二人ともよく眠っているようだ。しばらく寝顔を眺めてから、シロはそっと布団から抜け出した。手を洗いたかった。本当に血が付いているわけでもないことは、解っていたのだが。
台所で手を洗い、大きく息をつく。
「……いい加減にしろよ」
低く、這うような声で、シロはそう言った。
「もしかして、ばれてないとでも思ってんのか」
続けて言うと、かたりと音がした。
「…ゲン」
忍び装束に身を包んだ源左衛門が、そこにいた。
「知っていて放っておくとはおひとが悪い。いつから気付いてました?」
「お前がここに来た時から。……お前、今は誰の指示で動いてんだ」
「いやぁ、それを言ったら商売が出来なくなりますから。でも安心してください。誓ってシロさんの不利益になるようなことは無いですよ」
「ひとんち見張っている奴に言われても説得力がねぇよ」
「あはは、確かに」
軽く笑って見せた源左衛門を、シロは一睨みしてから隣を通り過ぎた。
「あれ、終わりですか? もっと厳しく問い詰めてくれてもいいのに」
「そこまでお前に興味が無い」
「うわ、ひどい。おれはこんなにもシロさんのことを恋い慕っているのに」
「なら一つだけ質問に答えろ。――お前の雇い主は、今日うちに来た神官だな? 確か孝之と…智治、とか言ったか」
「だーから、言えませんって。でもまぁ、おれの表情を見てシロさんが判断するのは自由です」
そう言って、源左衛門は大きなそぶりでうなずいてみせた。ご丁寧に、片目をばちんとつぶっている。
源左衛門は、情報屋だ。商売道具となる情報を自分の目で確認する為に、諜報活動も自分で行っている。他人から伝え聞いたことは基本的には信じないというのが彼の信条らしい。シロにとってはどうでもいいことだが。
「俺の不利益にはならない、か…」
「シロさん?」
シロは、底冷えのするような視線を源左衛門に向けた。
「言っておくが、あれに手を出すのは俺の不利益だ」
「…へぇ…」
シロの言葉に、源左衛門は薄く笑ってみせた。
「随分肩入れしているんですねぇ」
「あれの処遇は俺が決める。他人からの横やりは我慢ならねぇ」
静かに、しかしはっきりと、シロのまとう空気が変わる。
「お前が情報屋としてどんな仕事をしようがお前の勝手だ。だが、肝に銘じておけ」
シロの気配に合わせ、気温までも下がっていくようだ。
「…あれに手を出したら、俺はお前を殺せるぞ」
冷たく、感情の伴わない声音は、シロが確かに本気であると告げていた。
この時、源左衛門は心の底から喜んでいた。
これだ。この表情が、見たかったのだ。
およそ五百年前、同胞と神々に牙を剥いたシロ。圧倒的な力を以て、神界を血で染め上げた。その時、源左衛門はまだ産まれてもいない。だが、この世界で唯一の謀反、そして最大の殺戮事件として歴史書にも記載されている内容を見る度に、源左衛門の胸は高まった。誰もが平等で、平和という言葉が飽和しているこの世界で、謀反人はもはや伝説と言ってもいい。処刑されたとも追放されたとも言われる謀反人は、どんな人物であったのか。なにを思って生き、なにを思って殺戮者となったのか。それを想像し、想像するだけでは満足できなくなって、調べていくうちに情報屋となっていた。
そのうちに危ない情報も扱うようになり、そのせいで命を狙われたが、それさえも源左衛門にとっては僥倖だった。とどめを刺される寸前に、偶然にもシロに出会えたからである。
シロの顔は知っていた。以前に神関に忍び込んだ際、最重要機密書類に目を通していたからだ。謀反を起こした理由は簡潔にしか記載されていなかったが、そこは勝手に想像することにした。とにかく謀反人の名前と顔と経歴を覚え、そして、源左衛門はその資料を燃やした。
何故そうしたのか、明確な理由を彼は上手く言葉に出来ない。謀反人の情報を最後に閲覧したのが自分だとすることで、優越感に浸りたかったのかもしれない。ミーコが資料を見ることが出来なかったのは、この為だ。
シロに出会えたことは、本当に僥倖としか言いようが無かった。五百年も経つのにシロが生きていたことに、心から歓喜した。歪んだ微笑みを我慢することなど、到底出来ることではなかった。生きている理由など知ったことではない。ただ、謀反人が生きているということが重要だったのだ。だが出会ったシロは、すでに源左衛門が憧れて止まない謀反人ではなかった。
クロとともに静かに暮らす、一庶民でしかなかった。血の匂いはまったくせず、クロに対しては微笑みさえ向けていた。彼は完全に丸くなっていた。
つまらない。
面白くない。
こんな男はシロではない。
彼の牙が見たいのに。殺戮者として、ぎらついた目を見つめていたいのに。
クロがそばにいるから悪いのかと思い、試しにクロを攻撃してみたこともある。あっさりと返り討ちにあった。シロにではなく、クロ自身に。シロは、最初から源左衛門がクロにかなわないことを見越していたのだろう、睨まれはしたものの、本気で殺意を向けられることはなかった。相手にされていないのだと認識したが、悔しいと言うよりつまらないという感情の方が大きかった。
源左衛門はずっと待っていたのだ。かつての殺戮者が、再び殺気をまとうことを。
口角が歪に上がっていくのを、止められなかった。止める気も無かった。
殺されたいわけじゃない。希死念慮も持っていない。知りたい情報が尽きることも無いから、源左衛門はまだまだ汚く生きていくつもりだ。だが、殺気をまとったシロを間近で見ていたい。
二つの感情は、源左衛門の中で反発しあうことなく共存している。
「やっと、面白くなりそうです」
くつくつと笑う源左衛門を、シロは冷めた目で見やる。
「今はこれでお暇します。近いうちにまた」
「俺は二度と会わなくても構わん」
言い捨てて、シロは台所から出た。
自室に戻ろうと廊下を歩く。と、自室の戸が開いた。ミーコが顔を出す。足音で気が付いたのだろう、シロを認めるとてててと駆けよってきた。
「シロ!」
「…どうした。まだ夜中だぞ」
「なんとなく目が覚めてな。そうしたらシロがいなかったので、どうしたのかと思ったぞ」
駆けてきた少女は、両手を伸ばしてシロの袖を掴む。
シロの腰のあたりまでしか身長のない少女。一生懸命顔を上げてシロを見上げている。
この少女があの女神の、娘。
娘に罪が無いことは解っている。関係が無いことも解っている。
そんなことは、解っている。
けれどもどうしても、少女を見ているとあの女神の顔がちらつく。
あの女神さえ、あの時――。
「…シロ?」
「ああ、いや…」
思考の波に囚われそうになって、ミーコの声に我に返る。違う。この少女はあの女神ではない。違う。解っているのだ。
解っては、いるのに。
ミーコが不思議そうにしているのが気配で判る。薄暗い廊下では表情ははっきりとは見えない。見下ろす方も首が疲れるので抱き上げようとして、ぴたりと手が止まった。
――血が、付く。
「どうしたのじゃ」
伸ばしかけた手で拳を握り、シロは自室へと足を向ける。
「なんでもねぇよ。寝ろ。明日からのことは、朝になってから考えればいい」
「そうじゃな。よし、寝よう」
表情をはっきり見ることが出来なくとも、少女が笑っていることくらいは判る。屈託のない笑顔で、シロを見上げているのだろう。
ミーコを拾ったことを、いよいよ後悔し始めていた。




