生贄
家の中がしんとなって、その時になってようやく弱い雨が降っていることにシロは気が付いた。月明かりは届いているから、長くなることはないだろう。ただ、虫の音さえも聞こえてこない家の中は奇妙なほど静かで、余計に雨音が気になった。
ここまで来たら、ということなのだろう。沈黙を破ったのはミーコだった。
「天孫降臨からしばらくののち、神界で謀反が起こったのは周知の事実じゃ。むろんそなたらも知っておろうが、神々に牙を剥いたのは側近二人であったらしい。守護者といってな、そやつらが謀反を起こしてからは無くなった役どころじゃが。その騒動の時、神は一柱だけ生き残った。理由は知らぬ。謀反人は、一人は処刑されもう一人は追放されたらしい。ろくな資料が残っておらぬうえに母はなにも話してくれなんだから、詳細のほどは判らぬが」
詳細は説明してもらうまでもない。シロはすべてを知っている。覚えている。昨日のことのように。
ミーコは続ける。
「メイホウ、という言葉を知っておるか?」
「命宝でしょ。もちろん知ってるよ。神さまの術の一つだよね」
「うむ。命を身体から取り出して結晶化したものじゃ。神の側近に召し上げられた者は、自分の命――寿命と言っても構わんが、とにかくその命宝を取り出し、神に預ける。神を決して裏切らぬという証としてな。命宝を砕けばその持ち主は死ぬ。見ようによってはただの人質じゃが。しかし命宝が神のもとにある限り、命宝を預けた者は、人間の寿命の概念からは解放され、そうそう死ぬことは無い。首を切られでもせぬ限りな。病にもかからぬ」
ミーコが黙るといよいよ雨の音しかしない。雨が落ちていくように、ミーコは話し続ける。
「謀反人からも命宝は預かっておったはずじゃ。むしろ、命宝を預けたからこそ守護者であったはず。なのに何故、謀反が起きたのかは分からぬ。追放した謀反人がどうなったのかも知らぬし、神と同胞をみんな殺しておいて、たった一柱だけ見逃した理由もわらわには分からぬ。ともあれ、一柱の神が生き残った。それがわらわの母じゃ。その母が今のこの世界を作り上げたと言っても過言ではない。巫女制度を作り、人々をまとめ、関所を作ってこの世界を整備した」
それは、ほとんどシロの婚約者の提案だ。伝える気にはならないが。
「神は人間とは違って、術を使って分裂することで子を生し、命をつないでいく。寿命は人間のおよそ十倍じゃと言われておるが、それは分裂した場合の寿命であることは、あまり知られておらぬ。まあ、命をつないでいっても、太陽からはもう神族が降りて来なくなって久しい。これから先も、神は代替わりこそすれずっと一柱であったはずなのじゃが」
うん、とクロが先を促す。
「我が母は、謀反騒ぎ以降ずっと子を作らず、この世界の最後の神として生きておった。もう、五百年以上」
シロは、自分の唇が渇いていくのを感じていた。
あの時の、あの女神が。
死んだというのか。では何故。
何故、生きているのだろう。生きてここにいるのだろう。
思い出す。
あの時、喉元に剣を突きつけたシロに、女神は言ったのだ。
――返してやろう。
――ただし、お前の望む通りにはならぬ。
「お母さんは、ずっと一人きりで生きてきたのね。…え、でも、ちょっと待って。ミーコにはお父さんがいるって…」
クロの言葉に、ミーコはうなずいた。
「わらわは、神とひととの合いの子じゃ」
シロはなにも言えなかった。瞬きすらも出来なかった。
殺し損ねた女神の子が、目の前にいる。
目の前に。
手を伸ばせば、届くところに。
あの時殺し損ねた、殺しておけば良かったと何度も何度も後悔した女神の子が。
今、目の前に。
「母親は、視察と称して身分を隠し、ちょくちょく下界に降りていたらしい。そこで、父親と出会ったのじゃ。そうして、わらわが生まれた」
あの時。
シロの婚約者が犯人として名乗り出ると言った時、最初に頭を下げた女神。
「神と人間との恋仲など、許されるはずもない。身分どころか種族が違う。常識外れも甚だしいと神官が言っておった。そうは言ってもわらわを殺すことも出来ぬ。謀反騒ぎ以降、今の神界は、基本的に殺生は出来ぬからな。それに、半分とはいえ神の血を引いているのはわらわのみ。じゃから、仕方なく巫女として育てることにしたそうでな」
頼む、と泣いた女神。あの女神さえ口をつぐんでいてくれたら、他の神が頭を下げることもなく、婚約者が処刑されることもなかったかもしれない。
すべては、あの女神が。
この少女の、母親が。
知らず、ぐっと拳を握りしめた。
「人間は神には会えぬ。人間の血を引いている以上、わらわとて例外ではない。不平等を生むからな。しかし巫女ならば会える。わらわを巫女としたのは、神官たちのせめてもの思いやりだったのやもしれぬ」
五百年前の情景が、ありありと蘇ってくる。奇しくも、今も雨が降っている。
冷たくなった婚約者。
外の雨。
血の海。
怯える同胞。
逃げ惑う神々。
それらを、無言で追い詰めていくシロ。
「ともあれ、わらわは表向き巫女として神界で生きておった。神の宣託を受けたわけではないから、正式には巫女ではない。公表も出来ぬ。わらわの存在を視界にも入れぬ者も少なくなかった。関わりたくなかったのであろう。まあ、名前が無いから呼び掛けにくい、というのも少しはあったであろうが」
「…名前が、無い?」
クロの言葉に、ミーコはこくんとうなずいた。
「驚くのも仕方が無いが、ミーコはわらわの本名ではない」
別にそこには驚かないが、シロもクロも黙って続きを待った。
「名前が、無いのじゃ。産まれたその瞬間から巫女さまとしか呼ばれたことは無い。…名前は必要無いと言われてな」
「必要性の問題じゃないでしょう。お母さんは、なにも言わなかったの?」
「母は、神官たちのあらゆる要望を聞く代わりにわらわを産んでおる。平等性を保つために」
「…そんな…」
そんなものは平等とは言わない。しかしそれをここで論じていても話は前には進まない。なんてことはないように、ミーコは続ける。
「しかし少々窮屈ではあったが、特に不満は無かったのじゃ。母親にはたまにしか会えなかったが、たまに会うとたくさん抱きしめてくれてな。それに、少ないながらも優しい女官もいたし、親切にしてくれる官吏もおった。神殿内の書物を読み漁るのは楽しくて、時を忘れたこともある。…母親が、亡くなるまでは」
「お母さんが亡くなったのは、いつ?」
「一か月ほど前じゃ。…わらわに、一言すまぬと言い置いて亡くなった。謝るべきは、わらわのほうであるのに」
「どうして?」
「先ほども申した通り、神は人間とは違って、分裂して子を生す。仲間を呼び出すには太陽に祈っておったが、実子を生すときには分裂になるのじゃ。神の寿命は人間のおよそ十倍と言われておるが、それは子を生してからの寿命となる。子を生さなければ寿命はもっと長い。それでも神は愛する子を求め、分裂する。太陽から神族が降りて来なくなった今、そうしなければ神は繁栄出来ぬからな。そうして産まれた子は、親の生命力を奪うことで成長していくのじゃ」
「奪うって…」
「文字通り命がけで子を生すのじゃ。ゆっくりと時間を掛けて生命力を吸い取られ、子の成長とともに親は衰弱していく。普通の神ならば子が大人の背格好になるまで生き長らえるはずじゃが、わらわは人間の血も引いておる。きっと、普通の神よりも多く奪ってしまったのじゃろう。……意識的ではないにせよ、わらわが母親の寿命を縮めたのじゃ」
クロはなにも言えないようだった。初めて知ったのだから、無理もない。
そう、クロはなにも知らないのだ。なにも。
「親は覚悟の上で子を生すのであろうが、子としてはやり切れぬものがある。じゃが塞ぎ込む暇もなくてな」
「どうして?」
「わらわの今後を巡って、神官たちが議論を始めたのじゃ。神はもうおらぬ。しかしこの世界の人々は神の存在を信じ、その力に頼っておる。だからこそ巫女の存在も成り立っておる。そこで、わらわを神として認め、新しい巫女を探すべき、もしくは前任者に再び巫女となってもらってはと言う者と、神の崩御を隠してわらわを正式な巫女とし、人間界に公表すべきだとする者に別れたのじゃ。巫女の選定は大体百年に一度。それ以上の間が空くと、人間に疑念を抱かせてしまうからな」
ミーコの湯呑は、すでに空になっている。そっと、卓の上に湯呑を置いた。
「わらわの意見を聞く者もいたが、しょせん子どもの言うことなどと言って議会では却下されたようじゃ」
「ミーコは、どんな意見を出していたの?」
「わらわは、半分とはいえ神の子じゃ。この世界を治めることが役割ならそうすると。むろん、若輩者故一人では無理じゃ。じゃから、神官たちにも協力してほしいと言った。前任の巫女にも手を貸して欲しいと頼んだ。巫女の仕事をさばけるのはあの者しかおらぬからな」
模範解答だ。意識は五百年前に飛ばしたまま、頭のどこかでシロはそう思っていた。七つの子どもの意見とは思えないほどに。
いや、待て。
――七つ?
「議論が続いていたある日、先代巫女がわらわに言うたのじゃ。ひどく優しい声音でな。ゆっくりと。……わらわはまるで、生贄のようじゃと」
「……なんだと?」
意識が今に戻ってきたところでそんな言葉を聞き、シロは思わず反応した。
「もう一回。なんて言われたって?」
「じゃから、生贄のようじゃ、と」
「生贄…」
クロがつぶやく。シロは小さく口を開けた。
生贄。
犠牲。
それは、まるで――。
「その言葉の意味も、あの者がそう言った理由も、よくは解らぬ。じゃが、その言葉を聞いて急に恐ろしくなったのじゃ。神官たちに言われるまま、あそこにいることが。わらわの処遇は自分たちが決める故、ただ待っていればいいと言った神官たちが。母親に相談したかったがすでに母はおらぬ。そこで、ふと父親のことを思い出した」
父親について、詳しいことは聞いていなかった。ただ、優しくて強くて手先が器用であったことは聞いていた。似顔絵も書いてくれた。その絵や母親の口調から、好ましい人物であることは窺い知れた。
「思い出したら、急に会いたくなったのじゃ。どうしても会ってみたかった。そこで、どうしたいかと聞いてきた神官にそう告げた。そうしたら閉じ込められて、一週間ほど前に手紙が届いて、数日後に抜け出して、今に至るというわけじゃ」
長い話を終えて、ミーコは息をついた。
「そう…。そうだったの…」
「わらわの話はこれですべてじゃ。なにか質問はあるか?」
「お前、いくつだ?」
ほとんど間を置かずに、シロが聞いた。ミーコがきょとんとする。
「申したであろう。もうすぐ七つじゃ」
「違う」
「いや、違うと言われても」
「お前の母親と父親が出会ってから何年経った? 人間の時間でだ」
「あ」
「え、どういう意味?」
疑問符を浮かべるクロに、シロは舌打ちせずにはいられなかった。
「いいか? 神の寿命は、子どもを生してからは人間の約十倍。人間の平均寿命は大体六十歳。ということは、女神が死んだのは、それまでの年齢は別として大体六百歳。しかも、出会ったのはもっと前。人間なんか、生きているわけがねぇだろ」
クロは目を見開き、ミーコは固まっていた。
「いや、さっき普通の神よりも短命だったと言ったな。正確には何年だ?」
「……八十年ほどじゃ」
ため息を吐かずにはいられなかった。
「どっちにしろ生きてねぇな」
シロは納得していた。ミーコが父親を捜しに出てからすぐに燃やされた関所の住人管理台帳。八年前どころか去年のもの百年前のものも焼失した。特定の台帳ではなく倉庫ごとすべてを燃やしたのは、父親が正確に何年前の住人だったか知られない為なのだろう。
そして、ミーコの所作。七年で身に付いたものではない。七十年かけて身に付いたものだ。ならばあの美しさに納得もいく。
「いや…いや、しかし! 母親は言っておった! 父親はきっと、どこかで息災であると!」
「確かめたわけじゃないんだろ。そもそも五百年以上も生きていた女神だ。人間と同じ時間の感覚をしていたとは思えねぇな」
「では、神官たちは何故そう言ってわらわを諦めさせなかったのじゃ!? それが判っておれば、わらわとて逃げ出すことは…。そもそも、会いたいなどとは言わなかった!」
「お前が「逃げた」という事実を作った方が都合のいい奴らがいたんだろ」
「それは、どういう…」
「ねえ、待って。じゃあどうしてミーコは自分のことを七歳だなんて…」
クロからの当然の疑問に、答えたのはミーコだった。
「人間の寿命に合わせた数じゃ。わらわは人間との合いの子故、巫女にしかなれぬ。巫女ならば人間の数え方が相応であると言われてな」
小さな声でそう言ったミーコに、クロは眉を寄せる。
「ミーコ…」
「しかし…そうか」
ぽつりと、ミーコは続ける。
「わらわには、もう、父親もおらぬのじゃな…」
「ミーコ」
「本当に、独りなのじゃな…」
少し間を置いて、急に顔を上げる。笑っていた。
「少し考えれば判ることであった。母親が亡くなって冷静ではなかったとはいえ、あまりにも間が抜けておった。いや、恥ずかしいことじゃ」
「ねえ、ミーコ」
「本当に、二人のことは無駄に巻き込んでしまったな。誠にすまぬ。散々歩かせたうえに官吏に喧嘩を売らせた以上、謝って済むことでもないが…」
「ミーコ、聞いて」
「明日にでも関所に出頭しよう。そなたら二人のことは咎にならぬよう、なんとか掛け合ってみる故、心配せずとも良いぞ」
「ミーコ!」
がしりと、クロはミーコの両肩を掴んだ。
「泣きなさい!」
ミーコの表情が止まった。
「泣きなさい。……大丈夫だから」
「わらわは、別に…」
「もう大丈夫だから。ね?」
見る見るうちに、大きな瞳に涙が溜まっていく。
ミーコが大声を上げて泣き出すまで、数瞬もかからなかった。
ミーコは泣いた。つられてクロも泣いた。シロはただ、それを黙って見ていた。
シロが唯一愛した婚約者。
その婚約者を失うきっかけを作った、女神が遺した一粒種。
憎しみが湧いてきてもいいはずだ。
それなのに。
きつく目を瞑って、二人の泣き声と雨音を聞いていた。




