第99話「最終報告書、あるいは悪意の終焉」
朝、メールが届いた。
高梨からだった。
「彼らの判決が出た。君が提供した記録が、決定打になった。報告まで」
添付ファイルがあった。
ニュース記事だった。
蓮は開いた。
読んだ。
永瀬修三、確定判決。
水野誠一郎、控訴棄却。
大河原常務、執行猶予取り消し。
工藤弁護士、弁護士資格剥奪。
佐久間、追加起訴。
全員の顔写真が、記事に並んでいた。
三年前、俺の手柄を奪い、俺を追い出し、俺を消そうとした人たちだった。
蓮は画面を閉じた。
陽菜がコーヒーを持ってきた。
「高梨さんから何か来ましたか」
「はい。帝都物産関連の判決確定の報告です」
「そうですか」陽菜は言った。「どうでしたか」
「読みました」
「記録しますか」
蓮は少し間を置いた。
「いいえ」
「なぜですか」
「彼らはもう、俺の人生のノイズです。バックアップを取る価値もありません」
陽菜は蓮を見た。
「清々しいですね」
「そうですか」
「以前は、彼らの動向を毎日記録していましたよね。起床直後の最初の検索クエリが、彼らの名前でしたよね」
「そうでした」蓮は言った。「でも今朝の最初の検索クエリは、別のものでした」
「何でしたか」
「田中さんの日記の追加解読です」
陽菜は少し笑った。
「完全に変わりましたね」
「彼らが不幸になったことより、田中さんの父親の記録を届けることの方が、今の俺には重要です」
高梨への返信を書いた。
「報告ありがとうございます。記録は確認しました。彼らの件は、これにて完全に終了とします。こちらは元気にやっています。新しい案件が増えています」
それだけ書いた。
送信した。
返信はしばらくして来た。
「そうか。それが一番の報告だ。お前が新しい案件に集中できているなら、俺たちの仕事は終わった」
蓮はその返信を読んだ。
「俺たちの仕事は終わった」
高梨と蓮が一緒にやってきた三年間。
帝都物産との戦い。
エドワードとの対峙。
全部が、今日終わった。
でも、蓮の仕事は終わっていなかった。
形が変わっただけだった。
武器としての記録から、贈り物としての記録へ。
「高梨さんから何か」陽菜が言った。
「俺たちの仕事は終わった、と」
「高梨さんらしい言葉ですね」
「はい。でも、俺の仕事は続きます」
「続きますね」
二人は仕事に戻った。
昼に、ニュースを少し確認した。
帝都物産関連のトピックがいくつか出ていた。
蓮は画面を閉じた。
それ以上、見なかった。
以前なら、全部を記録していた。
解雇通知の日から始まった、三年分の記録。
黒川の動向。石倉の末路。麻衣の現状。母の状況。
全部を、毎日追っていた。
今日は、一つも追わなかった。
追う必要がなかった。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「何か考えていますか」
「三年前の自分と、今の自分を比べていました」
「どう違いますか」
「三年前は、起きた瞬間に敵の名前を検索していました。今日の最初の検索は、田中さんの案件でした」
「それが変化の証明ですね」
「はい」蓮は続けた。「三年前の俺が知ったら、驚くと思います。敵への怒りより、依頼人の日記を優先している自分に」
「驚くだけじゃなくて、喜ぶと思いますよ」陽菜は言った。
「なぜですか」
「三年前の蓮さんは、今日の蓮さんになりたかったはずだから」
蓮は少し間を置いた。
その言葉を、記録した。
【最優先フォルダ:陽菜の言葉】
「三年前の自分に、今日のことを話せたら」蓮は言った。
「何と言いますか」
「ただ待っていてください、と言います。全部、意味があります。三年後、陽菜さんと一緒に仕事をしています、と」
陽菜は少し笑った。
「私も一言言わせてください、三年前の蓮さんに」
「なんですか」
「もう少しだけ、記録を続けてください。その記録が、たくさんの人を救います」
夜になった。
仕事が終わった。
二人でバルコニーに出た。
夜景が広がっていた。
新居から見える景色だった。
以前の事務所からは見えなかった角度の夜景だった。
「いい景色ですね」陽菜が言った。
「はい」
「毎日見ていると、飽きますか」
「飽きないと思います」
「なぜですか」
「同じ景色でも、毎日違う光があります。今日の光は、昨日の光と一パーセントも同じではありません」
陽菜は夜景を見た。
「それは、感情で言っていますか、それとも分析ですか」
「両方です」
陽菜は少し笑った。
蓮は事務所に戻った。
記録帳を取り出した。
最新の一冊だった。
ページをめくった。
最後のページの次に、白紙があった。
白いページだった。
万年筆を手に取った。
上部に、何か書こうとした。
「第百章」
書いた。
「タイトル:」
止まった。
タイトルが、決まらなかった。
でも、決めなくていいとも思った。
明日、陽菜と一緒に決めればいい。
「どうしましたか」陽菜が戻ってきた。
「第百章のタイトルを考えています」
陽菜は覗き込んだ。
「第百章:タイトル未定」
と書いてあった。
「明日、一緒に書きましょう」陽菜は言った。
「はい」
「どんなタイトルがいいと思いますか」
蓮は白いページを見た。
「わかりません。でも、明日の記録を書いた後に、決まると思います」
「明日の記録が決まる前に、タイトルが決められないということですか」
「はい。記録が先で、タイトルは後です。いつも、そうやって来ました」
陽菜はページを見た。
白い紙が、光を受けていた。
「じゃあ、明日の記録を楽しみにしています」
「俺もです」
「どんな一日になりますか」
「わかりません」蓮は言った。「でも、記録する価値のある一日になります」
「なぜ確信があるんですか」
「陽菜さんがいるからです」
陽菜は少し間を置いた。
「……それは、ずるいです」
「どこがですか」
「そういうことを、自然に言うところが」
蓮は少し考えた。
「自然に出てきました。意図していませんでした」
「それが一番ずるいんです」
二人はバルコニーに戻った。
夜景が続いていた。
星がいくつか出ていた。
数えなかった。
ただ、あった。
【記録:202X年9月〇日 21:44】
帝都物産関連、全件判決確定。
俺の検索クエリに、彼らの名前は、もう存在しない。
第百章、白紙のまま。
タイトル:明日決まる。
確信:明日も、記録する価値のある一日になる。
白紙のページが、記録帳の中にあった。
明日を待っていた。
第99話 了
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