第98話「震える筆跡、あるいは届かなかった送信ボタン」
二日間、日記に向き合っていた。
蓮は文字のパターンを分析していた。
田中の父親の筆跡。
若い頃の文字と、晩年の文字を比較した。
認知症による文字の変化には、段階があった。
第一段階。漢字の画数が減る。複雑な字が、簡略化された字に変わる。
第二段階。ひらがなとカタカナが混在し始める。
第三段階。文字の大きさが不均一になる。行の方向が歪む。
第四段階。音に近い字が、意味から離れ始める。
田中の父親は、第三段階と第四段階の境界にいた。
九十四パーセントは解読できていた。
残り六パーセントに、特定不能な不規則性があった。
【解読率:94パーセント。残りの6パーセントに特定不能な不規則性あり。解読継続】
「どうですか」陽菜が言った。
「九十四パーセントは解読できました」
「残りの六パーセントは」
「特定不能です。パターンから外れています」
陽菜が来た。
日記を覗き込んだ。
「どこですか」
蓮がページを指した。
最後のページだった。
文字が一箇所、明らかに他と違っていた。
震えていた。
陽菜はルーペを取り出した。
じっと見た。
「蓮さん」陽菜は言った。
「なんですか」
「ここ、ペンが止まっています」
「止まっている」
「書きかけて、止まって、また書いています。この軌跡、迷っている時のものです。論理のバグではありません」
「感情の記録だということですか」
「書いている途中で、何かを考えたんだと思います。それが筆跡に出ている」
蓮はその文字を見た。
「感情の記録を解読するアルゴリズムは、持っていません」
「感情は、アルゴリズムで解読しなくていいんです」陽菜は言った。「この筆跡が何を示しているか、蓮さんはどう感じますか」
蓮は文字を見た。
分析しようとした。
止めた。
感じようとした。
「……書きたかったけれど、うまく書けなかった、という感触があります」
「そうです」陽菜は言った。「だから止まった。でも、書いた。つまり、どうしても伝えたかった」
「伝えたかった内容が、ここにある」
「一緒に読みましょう」
二人で文字を見た。
陽菜がルーペで拡大した。
蓮が照合を走らせた。
「この字は」蓮は言った。「田中さんの父親が若い頃に書いた字と、軌跡の方向が似ています。崩れていますが、元の字の骨格が残っています」
「どんな字ですか」
「『ひかり』という字です。漢字ではなくひらがなで書こうとして、途中で崩れています」
「光」陽菜は繰り返した。
「次の文字を確認します」
照合を続けた。
一文字ずつ。
時間がかかった。
でも、少しずつ形が見えてきた。
「読めました」蓮は言った。
陽菜が前に来た。
蓮はノートに書いた。
復元した文字を、丁寧に。
「せの こが なこんだ ひのひかり まだ おぼえている」
陽菜は読んだ。
少し間があった。
「川の……子供が泣いた日の光、まだ覚えている」陽菜は言った。「そういう意味ですか」
「おそらく」蓮は続けた。「他のページに、田中さんが幼い頃に川に落ちた記述があります。父親が助けた記録です。その日の光を、最後まで覚えていたということだと思います」
陽菜は文字を見た。
「父親が最後に書き残したかったのは、謝罪でも遺言でもなく、その日の景色だったんですね」
「はい。記憶が混濁する中で、それだけが鮮明に残っていた」
陽菜は少し間を置いた。
「それが届くのを待っていたんですね。田中さんに」
蓮は復元した文字を見た。
「記録は待つことができる」蓮は言った。
「そうです」
翌日、田中に連絡した。
来てもらった。
蓮は日記を田中に返した。
「解読できました」蓮は言った。
「全部ですか」
「九十六パーセントです。残りの四パーセントは、感情の記録でした」
「感情の記録」田中は繰り返した。
「技術的に解読できなかった部分を、別の方法で読みました。陽菜さんが助けてくれました」
蓮は復元した文字が書かれたノートを、田中に渡した。
田中は読んだ。
「せの こが なこんだ ひのひかり まだ おぼえている」
田中は止まった。
「川の」田中は言った。「俺が子供の頃、川に落ちたことがあります」
「はい。日記の別のページに記録がありました」
「父が助けてくれた」田中は続けた。「その時の光を、父が覚えていたんですか。最後まで」
「そう読めます」
田中は日記を見た。
しばらく、動かなかった。
「お父様の記録は、壊れていませんでした」蓮は言った。
田中が顔を上げた。
「壊れていない」
「はい。認知症で文字は崩れましたが、記録は残っていました。あなたに届くのを待っていました」
田中の目から、涙が落ちた。
静かに、落ちた。
「ありがとうございます」田中は言った。
声が少し掠れていた。
「ありがとうございます、篠原さん」
蓮は田中を見た。
記録した。
今日の田中の顔を。
この涙を。
この瞬間を。
「俺たちの仕事は、記録を届けることです」蓮は言った。「お父様の記録は、今日届きました」
田中は日記を胸に抱えた。
陽菜がお茶を持ってきた。
三人で、少し話した。
子供の頃の話を、田中がした。
川で遊んでいたこと。
父親が怖い顔で引き上げてくれたこと。
その後、怒られなかったこと。
「怒られなかったんですか」陽菜が言った。
「はい。父は、川岸で俺を抱きしめていました。怒らなかった。それが不思議だったんです、子供ながらに」
「今日、理由がわかりましたね」
田中は少し間を置いた。
「はい」
田中が帰った。
事務所に二人が残った。
「どうでしたか」陽菜が言った。
「田中さんの時間が動いたと思います」蓮は言った。
「時間が動いた」
「父親の記録を受け取る前と、受け取った後で、田中さんの目が変わっていました。何かが解けた目でした」
陽菜は窓の外を見た。
「記録は待つことができる」陽菜は言った。「田中さんのお父さんが証明しましたね」
「はい」
「私たちが証明するお手伝いをしました」
「そうです」蓮は続けた。「技術だけでは解読できなかった部分がありました。陽菜さんが感情の痕跡を見つけてくれなければ、最後の一文は読めませんでした」
「蓮さんが九十四パーセントを解読してくれなければ、私には何も読めませんでした」
「一人では届かなかった」
「二人だから届いた」
蓮はノートに書いた。
今日の日付と、一行だけ。
「記録は待つ。そして、届く。それが、俺たちの仕事だ」
書いた後、少し考えた。
三年前の自分が、今日の仕事を想像できたか。
できなかったと思った。
でも、三年前の自分の記録が、今日の仕事を可能にしていた。
全部が繋がっていた。
「次の案件を始めましょう」蓮は言った。
「はい」陽菜は答えた。
「届けるべき記録が、まだあります」
「何件ですか」
「今日の時点で、三件の問い合わせが来ています」
「三件全部、受けますか」
「できる限り」蓮は言った。「一秒でも長く、この仕事を続けたい」
陽菜は蓮を見た。
「それが答えですね」
「はい。今日の田中さんを見て、確信しました。俺たちの記録は、誰かに届きます。届く限り、続けます」
窓から、広い空が見えていた。
六十二パーセントの空が、今日も続いていた。
【記録:202X年9月三日 16:44】
田中誠への解読、完了。納品率:96パーセント。
田中の父親の最後の記録、受け渡し成功。
確信:この仕事を、一秒でも長く続けたい。
第98話 了
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