表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
最終章「今この瞬間の温度」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

97/100

第97話「最初のチャイム、あるいは新しい依頼人」

九月一日の朝だった。

窓から光が差していた。

広い空だった。

計算通り、六十二パーセントの空が見えた。

でも今日は、数値より先に、ただ広いと感じた。

蓮はサーバーを設置していた。

機器を棚に並べた。

ケーブルを繋いだ。

起動した。

「稼働確認」蓮は言った。

「いつものことながら、早いですね」陽菜が言った。

陽菜はキッチンにいた。

シンクからコンロまで、何度か歩いた。

「動線、どうですか」蓮は聞いた。

「完璧です。〇・八メートル以内でした」

「契約時の計測通りです」

「そうですね」陽菜は言った。「でも、実際に使ってみると、数値以上のものがあります」

「何がですか」

「光が入る方向が、ちょうどいいんです。朝の光がキッチンに当たって、食材の色がよく見える」

蓮は少し間を置いた。

「それは計算していませんでした」

「数値化できないものも、ありますよ」

「はい。陽菜さんが選んだ理由の一つが、今日わかりました」

陽菜はコーヒーを淹れ始めた。

新しいコーヒーメーカーだった。

引っ越しの際に、桐島の事務所から持ってきたものではなかった。

新しい場所のための、新しいものだった。

「稼働開始します」蓮は言った。

「何の稼働ですか」

「Margin Notes、新拠点。今日から記録を始めます」

「儀式のように言いますね」

「儀式として言いました」

陽菜はコーヒーを持ってきた。

二人でデスクに並んで座った。

窓から、広い空が見えた。

【記録:202X年9月一日 09:14】

Margin Notes、新拠点にて稼働開始。

サーバー:正常稼働。

通信速度:上限値での動作確認。

陽菜のキッチン評価:完璧。光の当たり方:記録外の利点あり。

新しい記録が、始まった。

午前中、荷物の整理が続いた。

棚に本を並べた。

デスクの位置を調整した。

コブシの押し花を入れた額を、窓の近くに飾った。

「ここでいいですか」陽菜が言った。

「光が当たりすぎると劣化します」蓮は言った。「もう少し左」

「ここ?」

「あと五センチ」

「……ここ?」

「はい」

陽菜は額を壁に固定した。

蓮はその位置を確認した。

「完璧です」

陽菜は少し笑った。

「蓮さんの『完璧』は、他の人の『ほぼ完璧』より厳密なんですよね」

「そうかもしれません」

「でも、それがいいんです」

午後になった。

二人は仕事を始めていた。

Margin Notesの新しい案件の整理だった。

田辺社長からの継続依頼が一件。

地方の図書館からの問い合わせが一件。

新しい案件の問い合わせが二件。

「賑やかになってきましたね」陽菜は言った。

「はい。移転の告知から三日で、四件の動きがありました」

「良いスタートです」

「ただ」

「なんですか」

「一件、判断が難しい問い合わせがあります」

「どんな内容ですか」

「詳細がわかりません。会って話したいということだけで」

「会ってみましょう」

チャイムが鳴った。

午後三時だった。

予約は入っていなかった。

「誰ですか」陽菜は言った。

「わかりません」

蓮はドアを開けた。

男性が立っていた。

三十代。スーツを着ていた。

どこかで見た顔だった。

照合した。

「田中さん」蓮は言った。

田中誠だった。

前職の同僚だった。

三年前、蓮が解雇された日に黙って見送った。

その後、黒川の録音アプリを自主的に設定した人間だった。

桐島に蓮の近況を伝えていた人間だった。

「来ました」田中は言った。「引っ越しのお知らせに、住所が書いてあったので」

「はい」

「急でしたか」

「問題ありません。どうぞ」

田中が入ってきた。

部屋を見た。

「いい事務所ですね」田中は言った。

「ありがとうございます」陽菜が言った。「お茶を用意します」

「すみません」

田中はソファに座った。

蓮は向かいに座った。

「用件を聞かせてください」

田中は少し間を置いた。

「お願いがあります。俺にしか頼めない話ではないんですが、篠原さんにしか頼めないと思って」

「どんな依頼ですか」

「うちの父が、先月亡くなりました」田中は言った。「父は昔から日記をつけていた人でした。でも、晩年は認知症が進んでいて、日記の字が崩れてきました。日付や固有名詞が判読できないところが多くて」

「日記の解読を」

「そうです。でも、それだけじゃなくて」田中は続けた。「崩れた文字の中に、何か伝えたかったことがあると思うんです。俺には読めなくて。でも、読めたら、父が最後に何を考えていたか知りたくて」

蓮は田中を見た。

「父の最後の言葉を、記録として復元したい、ということですか」

「はい」田中は頷いた。「篠原さんなら、崩れた文字でも読めると思って。俺、篠原さんのことを三年前に助けられなかった。でも、今日来たのは、それとは別で」

「別で」

「父のために、来ました。篠原さんに頼みたかった」

蓮は少し間を置いた。

「持ってきましたか、日記は」

田中は鞄から、古い日記帳を取り出した。

色が褪せていた。

蓮は受け取った。

開いた。

最初のページから確認した。

「崩れ方のパターンがあります」蓮は言った。「認知症による文字の変化は、一定のパターンで崩れる場合が多い。照合すれば、判読できる可能性があります」

「本当ですか」

「全部読めるかどうかはわかりません。でも、試みます」

田中は少し目が赤くなった。

「ありがとうございます」

田中が帰った後、蓮と陽菜は日記を前にした。

「田中さんと、三年前に関係があったんですか」陽菜は言った。

「前職の同僚です。俺が解雇された時、黙って見送った人間です」

「でも来てくれた」

「はい」

「どう思いますか」

蓮は日記を見た。

「俺の記録に、田中さんとの関係について苦い記録があります。でも」

「でも」

「今日来た田中さんは、父の記録を守ろうとして来ていました。その目的は、俺の過去の記録とは別のことです」

「分けて考える、ということですか」

「はい。田中さんとの過去の記録は、アーカイブにあります。今日の田中さんは、新しい記録です」

陽菜は日記を見た。

「読めますか」

「試みます」蓮はキーボードを開いた。「崩れた文字のパターン分析から始めます。陽菜さんには」

「数値の裏付け、私が計算します」陽菜は言った。

「助かります。誤差は」

「ゼロを目指しましょう」

蓮は少し間を置いた。

「一つ確認です。田中さんの父親の日記の最後のページは、解読できた時に読む価値があると思いますか」

「どういう意味ですか」

「俺たちの仕事は、記録を復元することです。でも、復元された記録は、その人の人生の一部です。正確である必要がありますが、それ以上に、届く必要があります」

陽菜は蓮を見た。

「届けましょう」陽菜は言った。「それがMargin Notesの仕事です。記録することは、誰かの孤独を終わらせること」

「はい」

二人はデスクに向かった。

並んで座った。

一つの画面を見た。

キーボードの音が始まった。

新しい記録が、紡がれ始めた。

窓から、広い空が見えていた。

六十二パーセントの空が、今日の仕事を見ていた。

【記録:202X年9月一日 16:33】

新拠点、初案件受付。依頼人:田中誠。

内容:認知症による崩れ文字の日記解読。

担当:蓮(パターン分析)、陽菜(数値照合)。

目標:誤差ゼロ。

開始。


第97話 了 


この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ