第96話「最後のデスク、あるいは継承されたノート」
朝から、片付けていた。
引き出しを全部開けた。
一番上の引き出し。
万年筆のインクの替え。消しゴムのかすが少し残っていた。
拭いた。
二番目の引き出し。
古いメモ用紙が何枚か。白紙だった。
取り出した。
三番目の引き出し。
空だった。
以前、帝都物産の資料のコピーを入れていた場所だった。
今は何もなかった。
引き出しを全部閉じた。
デスクの天板を拭いた。
三年間、使い続けた天板だった。
傷が一つあった。
三年前の最初の週、重いファイルを落とした時についた傷だった。
傷は消えなかった。
でも、今日拭いても、ただの傷だった。
「全部終わりましたか」陽菜が隣で言った。
「はい」
「私もほぼ終わりです」
陽菜のスペースも、片付いていた。
二人のデスクが、空になっていた。
「三年前」蓮は言った。
「はい」
「ここに初めて座った時、デスクに何も置いていませんでした。今日も何もありません」
「同じですね」
「でも、全然違います」
陽菜は空のデスクを見た。
「何が違いますか」
「三年前は、この場所に何も持っていなかったから、空でした。今日は、全部持って出るから、空です」
陽菜は少し間を置いた。
「いい違いですね」
「はい」
蓮はデスクを見た。
「ここから、全てが再起動しました」
声に出して言った。
誰かに言ったのではなかった。
デスクに言った。
三年分の記録が詰まった場所に。
昼前、桐島が来た。
コーヒーを三つ持っていた。
「何の集まりだ、三人で」と言いながら、テーブルに置いた。
「卒業式です」陽菜は言った。
「そんな大げさな」桐島は椅子を引いた。「荷物、まとめたか」
「はい。段ボール四箱です」
「タクシーは」
「午後に手配しています」
「そうか」
三人でコーヒーを飲んだ。
しばらく、何も言わなかった。
「桐島さん」蓮は言った。
「なんだ」
「一つだけ、報告させてください」
「聞く」
蓮は少し間を置いた。
「三年前、この場所に来た時、俺は記録することしかできない人間でした。それ以外の価値を、自分の中に見つけられていませんでした」
「そうだったな」
「でも今、俺は記録することが『誰かの孤独を終わらせること』に繋がると知っています。記録は武器でもなく、証拠でもなく、誰かに届くものだということを知っています」
「それは、お前が見つけたことだ」
「ここで見つけました」蓮は続けた。「桐島さんが、場所を貸してくれたから見つけられました。桐島さんが、俺を記録してくれていたから、俺は自分を信じられました」
桐島はコーヒーカップを持ったまま、少し目を逸らした。
「お前が笑えるようになるまで、隣にいると決めていた、と言ったな」蓮は続けた。「笑えるようになりました。桐島さんのおかげです」
桐島は窓の外を見た。
「俺は何もしていない」
「していました」
「お前が変わったんだ」
「桐島さんの観察日記を読んで、俺は変われました」
桐島は窓の外を見たまま、少し間を置いた。
「お前に教えることは、もう何もない」桐島は言った。
「わかっています」
「あとはお前が、お前自身の記録を汚さずに生きていくだけだ」
「汚さずに」
「お前の記録は正確だ。これからも正確であり続けろ。数字だけじゃなく、感情も、人の温かさも、全部正確に記録しろ」桐島はコーヒーを飲んだ。「それだけが、俺の最後のアドバイスだ」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
でも今日は、記録より先に、胸の奥に来た。
「ありがとうございました」
「礼はいらない」
「言わないと、俺の記録に『感謝を伝えなかった』という項目が残ります」
桐島はそこで初めて、笑った。
「お前は本当に」
「なんですか」
「面白い記録者だ」
陽菜が静かに笑っていた。
午後、荷物をまとめた。
段ボール四箱だった。
蓮は一番小さな箱を手で持った。
陽菜との半年の記録が入っている箱だった。
「それ、重くないですか」陽菜が言った。
「重いです」
「業者に頼みますか」
「いいえ」
「なぜですか」
「この箱は、自分で持つと決めました」
陽菜は少し笑った。
残りの箱をまとめた。
桐島が玄関まで来た。
「鍵、ここに置いていきます」蓮はデスクに予備鍵を置いた。
「置かなくていい」桐島は言った。
「え?」
「何かあったら、いつでもここを使え。顧問室として、そのデスクはしばらく残しておく」
蓮は鍵を見た。
「……では、預かります」
「そうしろ」
陽菜がドアを開けた。
外の光が入ってきた。
秋の気配があった。
夏の終わりの光だった。
「行きましょう」陽菜は言った。
蓮は部屋を振り返った。
空のデスクがあった。
桐島が立っていた。
「桐島さん」蓮は言った。
「なんだ」
「また来ます」
「いつでも来い。コーヒーは用意しておく」
扉を閉めた。
外に出た。
タクシーが来ていた。
荷物を積んだ。
乗り込んだ。
タクシーが動き出した。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「今、何を記録していますか」
蓮は窓の外を見た。
桐島の事務所が、小さくなっていった。
「桐島さんが、窓から見ていました」蓮は言った。
陽菜が振り返った。
桐島の事務所の窓に、人影があった。
見ていた。
「手を振りましょう」陽菜は言った。
二人で振った。
人影が、小さく手を振り返した。
見えなくなった。
「Margin Notes代表」蓮は言った。
「はい」陽菜は答えた。
「今日から、正式にそうなりました」
「そうですね」
「どんな気持ちですか」
陽菜は前を向いた。
「重いです。でも、いい重さです」
「俺も同じです」
タクシーが走り続けた。
新しい座標へ向かっていた。
【記録:202X年8月三十一日 15:22】
拠点座標、変更。
桐島コンサル:卒業。
Margin Notes:本格始動。
これより、新しい記録が始まる。
秋の光が、窓から差し込んでいた。
第96話 了
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