第95話「アーカイブの選別、あるいは過去の梱包」
段ボールを三つ用意した。
それぞれに、ラベルを貼った。
「重要度:高(永久保存)」
「重要度:中(スキャン後廃棄)」
「重要度:低(即廃棄)」
「始めましょう」蓮は言った。
「どこから」陽菜は言った。
「古いものから」
棚の端から取り出し始めた。
三年前のファイルだった。
一冊目を開いた。
「これは何の記録ですか」陽菜が言った。
「三年前、会社をクビになった当日の昼食の記録です」
「昼食の記録」
「はい。ファミリーレストランで、日替わりランチを食べました。価格は八百八十円でした」
「内容は覚えていますか」
「ハンバーグ、ライス、スープ、サラダです。でも」
「でも」
「味は、砂のようでした」
陽菜は少し止まった。
「砂のような味」
「当時の記録には、そう書いてあります。味の感触が全部、砂に感じられたと」
陽菜はファイルを見た。
「今、その記録を読むと、どんな気持ちですか」
蓮はファイルを見た。
「今の俺には、その感触が理解できます。でも、今の俺は再現できません。今のコーヒーの味が、砂には感じられないからです」
「それは、良かった」
「はい」
ファイルを「スキャン後廃棄」ボックスに入れた。
スキャンして残すには値する記録だった。
でも、物理的に持ち続ける必要はなかった。
作業が続いた。
ファイルを一冊ずつ確認した。
帝都物産関連の資料が出てきた。
永瀬修三の口座データ。
水野誠一郎の隠し物件の記録。
大河原の不正の証拠。
「これらは」蓮は言った。「法的な手続きが全て完了しています。高梨さんへの引き継ぎも終わっています」
「役割が終わった記録」
「はい。物理的な容量を占有するだけのデータです」
「捨てますか」
「シュレッダーにかけます」
「今の蓮さんに、怒りはありますか。これらを見て」
蓮はファイルを見た。
照合しようとした。
「……ありません」
「本当に?」
「はい。怒りが来るとしたら、彼らに対してではなく、あの頃の状況そのものに対してだったはずです。でも今は、あの状況があったから今日がある、という感触の方が強い」
陽菜はファイルを見た。
「この人たちへの怒りが、今は記録の一部になっているんですね」
「そうかもしれません。計算終了したタスクです」
シュレッダーを持ってきた。
ファイルを入れた。
音がした。
紙が刻まれる音だった。
三年前、帝都物産がシュレッダーにかけようとした書類を、蓮は読んでいた。
今日、蓮がシュレッダーにかける番だった。
「どんな気持ちですか」陽菜が言った。
「静かです」蓮は言った。「怒りでも悲しみでもなく、ただ静かです」
「それが一番いい状態ですね」
次のファイルを入れた。
エドワードの接触記録。
監視の記録。
廃校で対峙した日の記録。
全部、シュレッダーに入れた。
「これも捨てていいんですか」陽菜が言った。
「オムニ・データの件は、全て公的な記録として提出済みです。俺が持っている必要はありません」
「でも、あなたが苦労した記録でもあります」
「苦労した記録は、俺の脳にあります。紙は必要ありません」
シュレッダーが音を立てた。
過去が、細かくなっていった。
「永久保存」ボックスに入れるものが出てきた。
桐島からもらった付箋だった。
「明日また来い」と書いてあった。
三年前、最初の週に書いてもらったものだった。
「これは」陽菜が言った。
「最初の週です。当時、俺が何もわからなかった時に、桐島さんが書いてくれました」
「捨てませんね」
「はい。永久保存です」
次に出てきたのは、レシートだった。
古いレシートだった。
「これは」陽菜が言った。
「陽菜さんと最初に食事をした日の、レシートです」
陽菜は少し止まった。
「……取ってあったんですか」
「記録として」
「何を食べましたか」
「高級レストランでした。蓮の和牛を中心にしたコース料理でした。陽菜さんはデザートを半分残しました。でも、残した理由を言わなかったので、今でも不明です」
陽菜は少し間を置いた。
「……お腹がいっぱいだったんです」
「そうでしたか」
「七年分の謎が解けましたね」
「七年ではなく一年もたっていませんが」陽菜は少し笑った。「永久保存ですか、そのレシートは」
「はい」
「どうして」
「この日から、陽菜さんのことを記録するようになったからです。これが最初の記録です」
陽菜はレシートを見た。
「私の最初の記録が、デザートを半分残したことなんですね」
「そして、残した理由が今日まで不明だったことも記録されています」
「今日、解決しました」
「更新しておきます」
レシートを、永久保存ボックスに入れた。
一番最後に、小さな箱が出てきた。
陽菜との半年間の記録が入っていた。
向日葵畑の下見の写真。
コブシの花の押し花。
婚姻届のコピー。
「この箱だけは」蓮は言った。
「なんですか」
「俺が自分の手で運びます」
陽菜は少し蓮を見た。
「他の箱は業者に頼むのに」
「はい。これだけは、俺が持ちます」
陽菜は少し間を置いた。
「わかりました」
事務所が片付いていた。
三年分の記録の多くが、スキャンされるか、シュレッダーにかけられた。
残ったものは少なかった。
でも、残ったものは全部、重かった。
「軽くなりましたね、事務所が」陽菜は言った。
「はい」
「どんな気持ちですか」
蓮は部屋を見た。
棚が空になっていた。
以前は資料で埋まっていた棚が、今日は空白が目立った。
「空白があると、新しいものを入れられます」蓮は言った。
「そうですね」
「今まで記録でいっぱいだったところに、これからの記録が入ります」
陽菜はその言葉を聞いた。
「次の場所で、また始めましょう」陽菜は言った。
「はい」
「新しい座標で」
「新しい座標で」
窓から夕暮れが見えた。
今日の最後の光だった。
明日からは、別の場所から夕暮れを見る。
でも夕暮れは、どこから見ても夕暮れだった。
【記録:202X年8月〇日 17:52】
過去の記録、整理完了。
「重要度:高(永久保存)」:陽菜との記録、桐島からの付箋、その他十三件。
「重要度:中(スキャン後廃棄)」:業務記録の大部分。
「重要度:低(即廃棄)」:帝都物産関連、オムニ・データ関連、全廃棄完了。
空白、確保済み。
空白に、これからの記録が入る。
第95話 了
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