第100話「記録の継続、あるいは永遠の日常」
九月二日の朝だった。
コーヒーの香りがした。
陽菜がキッチンに立っていた。
朝の光がキッチンに当たっていた。
食材の色がよく見える角度の光だった。
内見の日に、陽菜が数値化できないと言った利点が、今朝も正確だった。
蓮はPCを立ち上げた。
起動音がした。
デスクトップが開いた。
最初に確認したのは、Margin Notesの案件フォルダだった。
昨日の続きが、三件あった。
「おはようございます」陽菜がコーヒーを持ってきた。
「おはようございます」
「今日は何から始めますか」
「田中さんの案件の最終確認と、新しい問い合わせへの返信です」
「わかりました。私は新居の表札を確認してきます」
陽菜が玄関に向かった。
ドアを開けた。
「蓮さん」
「はい」
「見てください」
蓮は立ち上がった。
玄関のドアの横に、小さな表札があった。
「篠原」
それだけだった。
その下に、もう一枚。
「Margin Notes」
「昨日、設置業者が来ていたんですね」
「昨日の夕方に。蓮さんが田中さんの案件に集中していたから、言わなかったんです」
「これが俺たちの座標です」蓮は言った。
「そうですね」陽菜は答えた。「今日から、ここが私たちの拠点です」
二人で表札を見た。
「篠原」という姓と、「Margin Notes」という社名が、並んでいた。
生活と仕事が、同じ場所にあった。
座標が、完全に重なった。
仕事が始まった。
田中から連絡が来た。
「先日はありがとうございました。父の日記、もう一度読み返しました。父が最後に伝えたかったことが、初めてわかった気がします。蓮さんたちに頼んで、本当に良かったです」
蓮は返信した。
「お役に立てて、良かったです。お父様の記録は、確かに届きました。これからも、何かあればお声がけください」
送信した。
「田中さん、また来てくれますかね」陽菜が言った。
「来ると思います」蓮は答えた。「届いた記録は、次の記録を生みます。田中さんの父親の記録が届いたことで、田中さんは自分の記録を残したくなるはずです」
「記録が記録を呼ぶ」
「はい。俺の三年前の記録が、今の俺を作ったように」
新しい問い合わせのメールを開いた。
「ある老人が、自分の手記を整理したい。子供に読んでもらいたいが、うまく書けない。手伝ってほしい」という内容だった。
「受けますか」陽菜が言った。
「受けます」蓮は答えた。「書けない記録を、書けるようにする仕事です。Margin Notesの本来の意味に合っています」
「本来の意味」
「余白に書き込まれた記録を、届ける仕事です」
陽菜は返信を作成し始めた。
蓮は次のファイルを開いた。
二人が並んで、仕事をしていた。
キーボードの音が、二つ、交互に鳴っていた。
昼過ぎ、蓮はバックアップを走らせた。
三年分のデータだった。
量が多かった。
帝都物産の記録。
高梨との記録。
桐島の観察日記のスキャン。
田中の父親の日記の解読データ。
陽菜との記録。
全部が、外付けドライブに保存されていった。
「バックアップ中ですか」陽菜が言った。
「はい。定期的にしています」
「いつから」
「毎月、月初にしています。ただ、今日は特別に全件走らせています」
「理由は」
蓮は少し間を置いた。
「今日から第百章が始まるからです。それ以前の全記録を、確実に保存しておきたい」
「第百章」陽菜は繰り返した。「タイトルは決まりましたか」
「もう少し待ってください」
バックアップが完了した。
蓮は進捗バーを見た。
「百パーセント完了」という表示が出た。
「俺の記録は、俺一人のものではなくなっています」蓮は言った。
「どういう意味ですか」
「陽菜さんにバックアップを共有した。田中さんの父親の記録が届いた。桐島さんの観察日記がある。高梨さんへの手紙がある。俺の記録が、今日この瞬間も、複数の場所に存在しています」
「記録のインフラですね」
「そうかもしれません。俺たちが現役を退いた後も、Margin Notesという仕組みが続いていけば、この記録は残り続けます。誰かが使ってくれれば、届き続けます」
陽菜は窓の外を見た。
六十二パーセントの空だった。
今日の光は、昨日の光と一パーセントも同じではなかった。
「記録は待つことができる」陽菜は言った。
「はい。俺たちが作っている記録も、誰かを待っています」
夕方、仕事が一段落した。
蓮は記録帳を取り出した。
昨夜、白紙のまま置いておいたページを開いた。
「第百章:タイトル未定」
という文字があった。
万年筆を取り出した。
「決まりましたか」陽菜が言った。
「はい」
「なんですか」
「書きます」
万年筆がページを走った。
「タイトル未定」を消した。
代わりに書いた。
ゆっくりと、丁寧に。
書き終えた。
陽菜に向けた。
「第百章:今この瞬間の温度」
陽菜は読んだ。
しばらく、動かなかった。
「これでいいですか」蓮は言った。
「なぜ、この言葉ですか」
「今日、バックアップを完了させた時に、思いました。俺の記録には、全部の瞬間が入っています。三年前の雨の温度も、陽菜さんと初めてコーヒーを飲んだ時の温度も、向日葵畑で指輪を渡した時の温度も。全部があります」
「全部」
「でも、今この瞬間の温度だけは、今しか記録できません。過去の記録は全部正確に残っています。でも、今この瞬間は、今記録するしかない」
「だから、今この瞬間の温度」
「はい。これからも、毎日今この瞬間を記録し続けます。それが俺の仕事です。それが俺の人生です」
陽菜はタイトルを見た。
「第百章:今この瞬間の温度」
「一つだけ確認させてください」陽菜は言った。
「なんですか」
「今この瞬間、蓮さんは何を記録していますか」
蓮は少し間を置いた。
「今は今のあなたの温度を記録しています」
陽菜は蓮を見た。
何も言わなかった。
でも、目が動いた。
「何度ですか」陽菜は言った。「私の温度は」
「計測しません」
「なぜですか」
「数値にしたら、失われるものがあります」
「何が失われますか」
「この瞬間のあなたが、数値より大きいからです」
陽菜は少し間を置いた。
「……それは、合格です」
「採点があったんですか」
「最後に一回だけ」陽菜は笑った。「合格でした」
夜になった。
窓から夜景が見えた。
星が出ていた。
今夜の星の数は、数えなかった。
ただ、あった。
「記録帳、今日で終わりましたか」陽菜が言った。
「最後の一行、書きます」
蓮は万年筆を持った。
最後のページ。
第百章のタイトルの下に、一行書いた。
『記録、継続中』
書いた。
ペンを置いた。
ノートを閉じた。
「終わりましたか」陽菜が言った。
「終わっていません」蓮は答えた。「継続中です」
「次のノートは」
「棚にあります。明日から使います」
「明日も記録が続くんですね」
「はい。記録は、終わりません。ただ、増えていきます」
陽菜は窓の外を見た。
夜景が続いていた。
「蓮さん」
「はい」
「三年前のあなたを助けに行けたとしたら、何を持っていきますか」
蓮は少し考えた。
「今日の記録を持っていきます」
「それだけですか」
「はい。見せます。これがあなたの三年後です、と」
「三年後の自分を見たら、どう思いますか」
「三年前の俺は、驚くと思います。でも、絶望していない目をしているとも思います」
「なぜですか」
「三年前の俺の目は、まだ生きていたからです。桐島さんがそう言っていました」
「そうですね」陽菜は言った。「生きている目が、今日を作った」
蓮は窓の外を見た。
光が並んでいた。
一つ一つが、誰かの時間だった。
「陽菜さん」
「はい」
「明日も、記録しましょう」
「はい」陽菜は答えた。「一緒に」
「今日以上の温度を、明日の記録に残しましょう」
「毎日、それを目指しましょう」
窓の外で、夜が続いていた。
「記録、継続中」という一行が、閉じられたノートの中にあった。
明日、新しいノートが開く。
最初のページは白かった。
でも、今夜この瞬間から、すでに何かが書き始められていた。
目に見えない記録が、二人の間に流れていた。
今この瞬間の温度が、確かにあった。
【記録:202X年9月二日 22:31】
「今この瞬間の温度を記録しています。」
「その記録は、明日も続きます。」
「バックアップ:オンゴーイング。」
第100話(最終話) 了
【最終章「今この瞬間の温度」91〜100話 完結】
この作品を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
蓮と陽菜の記録は、これからも続いていきます。
100話完結までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
おかげさまで現在、ランキングに入ることができています。
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この作品を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
まさか、こんなにたくさんの方に読んでいただけるとは思っていませんでした。ブックマークをしてくれた方、評価を入れてくれた方、コメントを送ってくれた方、そして毎話更新を待っていてくれた方。全員の存在が、篠原蓮が百話を走り切る原動力でした。
この物語を書き始めた時、一つだけ決めていたことがありました。
蓮は、怒らない。
理不尽に怒鳴り返さない。復讐を叫ばない。ただ、記録する。
踏みにじられた人間が、感情ではなく「事実」だけを武器にして生きていく姿を、最後まで書きたかった。
でも書いていくうちに、蓮は変わっていきました。
記録することが「武器」だった男が、記録することが「誰かの孤独を終わらせること」だと気づく男になっていった。
それは、陽菜のおかげでした。
コーヒーの味を「砂のようだ」と記録していた男が、「記録外:新規」という分類を作るようになった。
向日葵の花言葉をノートの隅にそっと書くようになった。
心拍数を「計測不能なほど上昇」と記録するようになった。
そして最後に、「今は今のあなたの温度を記録しています」と言えるようになった。
その変化を、最後まで見届けてくださった読者の皆さんに、深く感謝します。
記録は、待つことができます。
この作品も、どこかで誰かに届くのを待っていたのかもしれません。
今日、あなたがここまで読んでくれたことで、届きました。
ありがとうございました。
篠原蓮の記録は、これからも続いています。
この作品を読んでくださった全ての方へ。あなたの時間は、俺の記録の中で、最優先フォルダに保存されています。




