第93話「婚姻届の受理、あるいは戸籍というデータベース」
婚姻届を、三日前から用意していた。
法務省が定める様式に従った書類だった。
蓮は書類を広げた。
確認した。
用紙の状態。
折り目がないか。
インクのにじみがないか。
記入欄の全項目が埋まっているか。
氏名の記入は戸籍通りか。
生年月日の数字に誤りはないか。
本籍地の記載は正確か。
全部、確認した。
「どうですか」陽菜が言った。
「完璧な入力データです」
「本当に三回確認しましたね」
「四回です」
陽菜は少し笑った。
「証人欄は」
「桐島さんと高梨さんにお願いしました。昨日、署名を受け取りました」
証人欄を見た。
桐島謙二。
丁寧な字だった。
いつもの乱暴さが、今日は抑えられていた。
高梨誠一。
力強い字だった。
筆圧から、書いた時の高梨の緊張が伝わってきた。
「二人とも、大切に書いてくれましたね」陽菜は言った。
「はい」
「緊張していますか」
「確認作業に集中しているので、緊張の処理が後回しになっています」
「その状態が、蓮さんの緊張している状態ですね」
「そうかもしれません」
区役所は、休日でも開いていた。
番号札を取った。
待合の椅子に座った。
「二十三番」という番号だった。
今は十七番だった。
「待ち時間は」蓮は言った。
「わかりません」陽菜は言った。「計算しなくていいです」
「六人分の平均処理時間を計算すれば」
「しなくていいです」
「わかりました」
蓮は書類を持ったまま、待った。
窓口の様子を見た。
職員が書類を確認していた。
確認のプロセスを観察した。
「記入欄の確認、本人確認書類の照合、データベースへの入力、確認印の押印という順序で処理されているようです」蓮は陽菜に言った。
「そうですね」
「所要時間、一件あたり約四分です」
「だから六人分で二十四分、ということですか」
「はい」
「そうやって計算してしまうんですね」
「止めようとしたんですが」
「いいです」陽菜は言った。「それがあなたです」
番号が呼ばれた。
十九番。
二つ進んだ。
「二十三番のお客様」
蓮と陽菜は立ち上がった。
窓口に向かった。
職員が「婚姻届のご提出ですか」と言った。
「はい」蓮は書類を差し出した。
職員は受け取った。
確認を始めた。
蓮は職員の手元を見た。
記入欄を一つずつ確認していた。
同じプロセスだった。
観察した通りのプロセスだった。
「不備はありません」蓮は言った。
「確認させていただきますので、少々お待ちください」職員は言った。
「はい」
確認が続いた。
陽菜は少し蓮の袖を引いた。
「黙って待ってください」
「はい」
確認が終わった。
職員が印鑑を持った。
書類の端に、受理の印が押された。
「おめでとうございます」職員は言った。
定型句だった。
毎日、何十回も言っている言葉だった。
でも今日の蓮には、違う音として聞こえた。
システムアップデート完了。
という通知音のように聞こえた。
【記録:202X年7月二十七日 10:44】
婚姻届、受理。
法的地位:更新。
戸籍データベース:更新中。
「ありがとうございます」陽菜が言った。
職員が書類のコピーを渡した。
二人は窓口を離れた。
役所の外に出た。
夏の光が強かった。
蓮は少し止まった。
「どうしましたか」陽菜が言った。
「今、この瞬間に、戸籍のデータベースが更新されていると思っています」
「更新されていますね、きっと」
「篠原蓮という記録に、陽菜さんの記録が紐づけられました」
「私の記録にも、蓮さんが紐づけられました」
「双方向の参照ができるようになりました」
陽菜は少し笑った。
「結婚の説明として、正確かどうかはわかりませんが、あなたらしいですね」
二人は歩き始めた。
しばらく並んで歩いた。
「陽菜さん」蓮は言った。
「はい」
蓮は少し間を置いた。
「篠原陽菜さん」
陽菜が止まった。
「……はい」
声が少し変わっていた。
「呼んでみました」
「今日初めて呼ばれました」陽菜は言った。「この名前で」
「どうですか」
陽菜は少し考えた。
「不思議です。でも、すでに自分の名前のような気がします」
「慣れましたか、一回で」
「あなたが呼んだから、そう感じるんだと思います」
蓮はその言葉を記録した。
【音声記録:陽菜の声。「あなたが呼んだから、そう感じる」。音声データ:最優先フォルダへ保存】
「もう一回呼んでいいですか」
「どうぞ」
「篠原陽菜さん」
「はい」陽菜は答えた。
今度は、少し笑っていた。
「やっぱり」陽菜は言った。「あなたが呼ぶと、自分の名前になります」
帰り道、カフェに寄った。
コーヒーを注文した。
受け取る時、レシートが出てきた。
名前を書く欄があるカフェだった。
「お名前は」店員が言った。
蓮は少し考えた。
「篠原で」
店員が書いた。
呼ばれた時、「篠原様」と言われた。
陽菜も立ち上がった。
二人で受け取った。
「篠原様」という呼び名に、二人で応えた。
「慣れますね、意外と早く」陽菜は言った。
「一回で慣れました」
「同じです」
コーヒーを飲んだ。
「これから、色々変えることがありますね」蓮は言った。
「名刺や、事務所の表札など」
「Margin Notesの代表者表記も」
「陽菜さんの名前が、変わります」
「蓮さんも、関係書類を全部更新しなければいけないんですよね」
「はい。リストを作りました」
陽菜は少し目を細めた。
「リストは何件ありますか」
「四十二件です」
「……多いですね」
「一つずつ処理します」
「一緒にやります」
「ありがとうございます」
カフェの窓から、夏の光が差していた。
「篠原陽菜」という名前が、今日から世界に存在していた。
戸籍に。
レシートに。
蓮の記録帳に。
蓮は今夜、家に帰ったら記録帳を開くつもりだった。
最初のページに書こうと思っていた言葉があった。
「篠原陽菜」
という文字列を、万年筆で書く。
それが、今日という日の記録の始まりになる。
【記録:202X年7月二十七日 12:03】
氏名更新:瀬川陽菜→篠原陽菜。
関連書類更新:四十二件、順次処理予定。
Margin Notes代表者表記:更新予定。
名刺・表札:更新予定。
更新作業は、これから始まる。
でも今日は、コーヒーを飲みながら、その始まりをただ感じていた。
第93話 了
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