第92話「遺言の書き換え、あるいは高梨への報告」
高梨へのメッセージを書いたのは、夜だった。
「報告があります。昨日、陽菜さんにプロポーズしました。返答をいただきました」
それだけ書いた。
送信した。
翌朝、返信が来た。
高梨らしい、短い文章だった。
「おめでとう。君の記録は、もう『事件の証拠』ではなく『幸福の証明』になったんだね。続けてほしい。ずっと」
蓮は読んだ。
もう一度読んだ。
「幸福の証明」
三年前、記録することは「武器」だった。
帝都物産との戦いでは、記録が証拠になった。
エドワードとの対決でも、記録が力だった。
でも今の記録は、何のためにあるか。
高梨が今日、答えを送ってきた。
幸福の証明のためだった。
蓮は返信を書いた。
「高梨さん。俺の記録が、そう変わったのは、最初にあなたが俺の記録を信じてくれたからです。ありがとうございました」
送信した。
しばらくして、また返信が来た。
「物語の結末は、作者ではなく登場人物が決めるものだ。君はよく決めた」
蓮はその一文を、ノートに書き写した。
万年筆で、丁寧に。
深夜になった。
陽菜は先に帰っていた。
事務所に一人で残って、古いバックアップの整理をしていた。
三年前のデータが入った外付けドライブを接続した。
古いファイルを確認していた。
当時の案件のデータ。
読んでいた書類のスキャン。
日付のついた記録。
全部が、三年前だった。
あの頃の自分の記録だった。
一つのフォルダの名前に、目が止まった。
「最終処理プロトコル」
開いた。
文字が並んでいた。
「ハードディスクの物理的破壊:〇〇社にて処理依頼。手順は添付の書類に従うこと」
「携帯電話のデータ消去:出荷時設定にリセット後、廃棄」
「桐島謙二への引き継ぎ資料:Dドライブのフォルダ内に保管。整理済み」
「残高の処理:特記なし。相続人なし」
最後の一行は、空白だった。
「その他の連絡事項:なし」
蓮は画面を見た。
三年前の自分が書いたものだった。
あの頃、自分がいつ壊れてもいいように、準備していたものだった。
誰かに迷惑をかけないための、事務的な整理だった。
「相続人なし」
その一行を、蓮はもう一度見た。
今日この文字を見て、初めて怖かった。
三年前の自分が怖かった。
怖いというのは、正確ではなかった。
今の自分が、三年前の自分を、初めて「他者として」見ていた。
孤独に死ぬことを、前提として準備していた人間を。
あの頃の自分は、誰かと生きることを、想定していなかった。
「相続人なし」
でも今日、陽菜の左手にリングがある。
桐島の観察記録が本棚にある。
高梨からの手紙が、保存されている。
田辺社長の連絡先がある。
「相続人なし」では、もうなかった。
蓮はキーボードに手を置いた。
削除しようとした。
止まった。
削除は、なかったことにすることだった。
あの頃の自分を、なかったことにすることだった。
でも、あの頃の自分がいたから、今がある。
三年前に段ボールを持って出てきた自分がいたから、今日の記録がある。
削除ではなく、上書きにしようと思った。
キーボードを打ち始めた。
「最終処理プロトコル」というタイトルを、変えた。
「ライフログ:陽菜と共に」
タイトルが変わった。
文字を消した。
新しく書き始めた。
「2025年」
「Margin Notesを継続する。陽菜さんと共に依頼に応じ続ける」
「2026年」
「高梨を地方に訪ねる。陽菜さんと共に」
「2030年」
「Margin Notesの次の形を考える。記録の新しい使い方を探す」
「2040年」
「記録の精度が落ち始めたら、陽菜さんの計算で補完してもらう」
「2050年」
書こうとした。
どんな記録があるか、まだわからなかった。
でも、書いた。
「2050年以降、記録継続予定。詳細は都度更新」
書き終えた。
画面を見た。
以前のファイルの面影は、タイトルだけに残っていた。
「ライフログ:陽菜と共に」
保存した。
蓮は少し間を置いた。
三年前の自分と、今の自分が、同じ画面の上にあった。
タイトルは変わった。
中身は全部変わった。
でも、ファイルが作られた日付は、三年前のままだった。
三年前の自分が作ったファイルが、今日書き換えられた。
それが正確だった。
消えていない。
あの頃の自分は、ここにいる。
でも、中身が変わった。
「相続人なし」から「陽菜さんと共に」に変わった。
そういうことだった。
ハードドライブを取り外した。
棚に戻した。
窓の外に、夜の街があった。
光が並んでいた。
一つ一つの光が、誰かの時間だった。
「一秒でも長く」
蓮は声に出して言った。
「この記録を続けたい」
誰も聞いていなかった。
でも言った。
三年前の自分に、言いたかった。
お前が作ったファイルを、今日書き換えた。
お前がいたから、今日がある。
だから、一秒でも長く続ける。
陽菜さんと一緒に、続ける。
高梨さんが言っていた。
「物語の結末は、作者ではなく登場人物が決めるものだ」
俺は登場人物だった。
三年前も、今日も。
結末を、俺が決める。
【記録:202X年7月二十五日 01:14】
最終処理プロトコル、削除。
代替:ライフログ「陽菜と共に」、作成。
2025年から2050年以降まで、記録継続予定。
更新日:随時。
終了予定日:なし。
保存完了。
電気を消した。
事務所の夜景が、静かだった。
第92話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




