第91話「バックアップの共有、あるいは日常への帰還」
翌朝、事務所に来た。
いつも通りだった。
コートを脱いだ。
鞄をデスクに置いた。
パソコンを開いた。
キーボードを打ち始めた。
【記録:202X年7月二十四日 09:02】
ミッションステータス:完了。
運用フェーズ:永続。
「おはようございます」陽菜が言った。
「おはようございます」
陽菜がコーヒーメーカーに向かった。
豆を入れた。
水を入れた。
スイッチを押した。
その一連の動作が、いつも通りだった。
でも、陽菜の左手が動くたびに、リングが光った。
事務所の照明に反射して、小さく輝いた。
フィボナッチ数列の細工が、動くたびに違う角度で光を拾った。
蓮はその反射を見た。
記録した。
【陽菜の左手薬指。リング、装着確認。反射角度、現在〇〇度。光の強度、室内照明下で十分な輝度】
記録した後、少し止まった。
この記録を、どのフォルダに入れるべきか考えた。
「最優先フォルダ」はもう満杯だった。
「生命維持フォルダ」も、もう別の用途になっていた。
新しいフォルダが必要だった。
新しいフォルダを作った。
名前をつけた。
「陽菜とのこれから」
入れた。
一件目の記録だった。
「どうぞ」陽菜がコーヒーを持ってきた。
受け取った。
指先が触れた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
いつも通りの会話だった。
でも、昨日までとは違う重みがあった。
言葉の重みではなかった。
二人の間の空気の重みだった。
昼前、桐島が来た。
「顧問登場だ」桐島は言った。
「おはようございます」陽菜が言った。
「おう」桐島はコートを脱いだ。
コーヒーを自分で注いだ。
椅子に座った。
書類を確認し始めた。
しばらく経った。
「陽菜さん」桐島は言った。
「はい」
「その指輪、昨日からですか」
「はい」陽菜は答えた。
「そうか」桐島はコーヒーを飲んだ。「いいセンスだな」
「ありがとうございます」
「選んだのは誰だ」
陽菜は蓮を見た。
蓮はパソコンを見ていた。
「蓮さんです」陽菜は言った。
「そうか」桐島はまた書類を見た。
しばらく、何も言わなかった。
蓮はキーボードを打ち続けた。
「篠原」桐島は言った。
「はい」
「報告があるんじゃないのか」
「……あります」
「聞こうか」
蓮はキーボードを止めた。
「昨日、陽菜さんにプロポーズしました」
「結果は」
「適合率は百パーセントでした」
桐島が少し止まった。
「適合率」桐島は繰り返した。「お前、それがプロポーズの結果の言い方か」
「正確な表現です」
「正確だが」桐島は言った。「普通の人間は、うまくいきました、と言う」
「うまくいきました」
桐島はしばらく蓮を見た。
それから、立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
コートを着た。
外に出た。
五分後、戻ってきた。
コンビニの袋を持っていた。
缶が入っていた。
「昼間から飲むのか」蓮は言った。
「ノンアルコールだ」桐島は缶を三本出した。「乾杯くらいするだろ」
三人で缶を持った。
「現地調査の結果はどうだったんだ」桐島は蓮に言った。
「向日葵が三万本咲いていました。計算通りでした」
「そうか。フィールドワークは完了したな」
「はい」
「では、次のミッションに取りかかれ」
「次のミッションは何ですか」
「さあな」桐島は缶を傾けた。「お前が決めることだ」
三本の缶が触れた。
音がした。
小さな音だった。
でも、今日の事務所で一番大きな音だった。
「桐島さん」蓮は言った。
「なんだ」
「三年間、俺を記録してくれていたこと。あのノートを渡してくれたこと。ありがとうございました」
桐島は少し間を置いた。
「礼はいらない」
「言わないと収まらないので」
「そうか」桐島は缶を飲んだ。「じゃあ聞いておく」
「お二人にも」陽菜が言った。「私も含めて、ありがとうございました」
桐島は陽菜を見た。
少し目が動いた。
「俺は何もしていない」
「いてくださっただけで十分です」
桐島は何も言わなかった。
でも、缶を持つ手が、少し強くなった。
夕方、桐島が帰った。
「また来る」と言った。
「顧問はいつ来てもいいです」陽菜は言った。
「そうさせてもらう」
桐島が出ていった。
事務所に二人が残った。
蓮はパソコンに向かった。
何かの操作をしていた。
「何をしていますか」陽菜が言った。
「少し待ってください」
しばらく、操作が続いた。
「陽菜さん」蓮は言った。
「はい」
「PCを見てください」
陽菜がデスクに来た。
蓮のPC画面を見た。
フォルダ構成が表示されていた。
「これは」陽菜は言った。
「俺の記録帳のデジタル版です。三年前から今日まで、全部入っています」
「全部」
「日付のついた記録が、全部あります。高梨さんとの記録も。桐島さんとの記録も。帝都物産の件も。陽菜さんのことも」
「私のことも」
「はい。最初に会った日から、昨日の向日葵畑まで」
陽菜は画面を見た。
フォルダの名前が並んでいた。
「蓮さんの記録は、蓮さんだけのものです」陽菜は言った。「見ていいんですか」
「俺の記録を、バックアップとして共有します」蓮は言った。「これをどう使うかは、陽菜さんが決めていいです」
「どういう意味ですか」
「俺が覚えていることを、陽菜さんも持てる、ということです。俺に何かあった時、この記録は残ります。俺が覚えていることを、誰かが読める」
陽菜は少し間を置いた。
「蓮さん」
「はい」
「これは、私に全部渡す、ということですか」
「はい」
「三年分の、全部」
「はい」
陽菜は画面を見た。
フォルダが並んでいた。
「私の計算結果も、共有しますね」陽菜は言った。
「計算結果」
「私はずっと、いろんなことを計算してきました。計算結果はメモしていました。それも共有します。私の計算と、あなたの記録で、全部を持ち合う」
蓮は少し間を置いた。
「バックアップの相互共有です」
「そうです」陽菜は言った。「バックアップの相互共有。それが私たちのやり方です」
蓮は操作した。
フォルダのアクセス権限を変更した。
陽菜の名前を追加した。
「完了しました」
「ありがとうございます」
陽菜はフォルダを見た。
一番古いフォルダを開いた。
三年前の最初の日の記録があった。
「三年前の蓮さんが、ここにいるんですね」
「いつでも会えます」
陽菜はフォルダを閉じた。
「今の蓮さんの方が、好きですが」
「それはどういう意味ですか」
「三年前の蓮さんは、目が死んでいたと桐島さんが言っていました。今は違います」
「目が違いますか」
「全然違います」陽菜は蓮を見た。「今のあなたの目は、生きています」
蓮は少し間を置いた。
「陽菜さんのおかげです」
「私だけじゃありません」陽菜は言った。「桐島さんも、高梨さんも、田辺さんも、佐々木さんも、全部のおかげです」
「はい」
「そして、三年前の蓮さん自身のおかげです。全部を記録し続けた、あの頃のあなたのおかげです」
蓮はその言葉を聞いた。
「俺も、陽菜さんがいてくれたおかげです。最初から、ずっと」
窓の外に、夏の夕方の光があった。
今日も、光は続いていた。
明日も続くはずだった。
二人の記録が、今日から共有された。
これが、新しい始まり方だった。
第91話 了
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