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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第六章「新しい記録」

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第90話「三万本の黄金、あるいは記録された永遠」

朝、目が覚めた。

いつも通りの天井だった。

でも、今日は違った。

カウントダウンがゼロになる日だった。

蓮は起き上がった。

棚から記録帳を取り出した。

三十二ページ目を開いた。

コブシの押し花があった。

その隣に、ケースがあった。

取り出した。

開けた。

リングがあった。

フィボナッチ数列の細工。

向日葵の種子の螺旋と同じ配置。

光が入った。

細工が小さく輝いた。

ケースを閉じた。

コートのポケットに入れた。

心拍数を確認しようとした。

【エラー:心拍数計測不能。上限超過】

九十日間、このエラーを待っていた。

事務所に向かった。

陽菜が来ていた。

いつも通りだった。

でも、コートが少し違った。

今日の陽菜のコートは、明るい色だった。

いつも選ばない色だった。

「おはようございます」陽菜が言った。

「おはようございます」

「今日、どこかに行きますか」

「はい」

「どこへ」

「四月に行った場所です」

陽菜は少し間を置いた。

「今日ですね」

それだけ言った。

行き先を聞かなかった。

わかっているような目をしていた。

「コート、いつもと違いますね」蓮は言った。

「今日は、明るい方がいいと思いました」陽菜は答えた。「理由は、よくわかりませんでしたが」

「似合っています」

「ありがとうございます」

陽菜は少し目を細めた。

「蓮さん、顔色が違いますね」

「どう違いますか」

「緊張しているんですか」

「……セキュリティの確認が完了していないので」

「そうですか」陽菜は笑った。「では行きましょう」

電車を乗り継いだ。

四月の時と同じルートだった。

でも、窓の外の景色が違った。

緑が濃かった。

光が強かった。

空が高かった。

夏だった。

最寄り駅で降りた。

バスに乗った。

降りた場所に立った。

四月に来た時と同じ場所だった。

でも、全部が違った。

「……」

蓮は言葉を失った。

向日葵が、あった。

見渡す限り、向日葵が咲いていた。

土だった場所が、黄色だった。

三万本。

全部が太陽を向いていた。

黄色と緑と青が、地平線まで続いていた。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「見て。本当に波になっています」

風が来た。

三万本の向日葵が、一斉に揺れた。

黄色い波だった。

波が、東から西へ流れた。

次の波が来た。

また揺れた。

蓮は計算しようとした。

できなかった。

計算が、追いつかなかった。

計算より、見ていることの方が、先に来ていた。

視覚情報が、処理能力を超えていた。

「どうですか」陽菜が言った。

「…計算していた通りでした」

「そうじゃなくて」

「計算より、現実の方が、鮮やかでした」

陽菜は向日葵を見た。

「四月に来た時は、ここは土だった」陽菜は言った。「何もなかった。でも蓮さんには見えていた」

「レンダリングしていました」

「レンダリングよりも、本物の方が良かったですか」

蓮は少し考えた。

「比較できません。どちらも、正確でした。ただ」

「ただ」

「今日の向日葵を、一緒に見られることが、加わりました」

陽菜は少し蓮を見た。

また前を向いた。

風が来た。

黄色い波が、また押し寄せた。

畑沿いの道を歩いた。

四月に座ったベンチがあった。

二人で座った。

向日葵が目の前にあった。

高さが百五十センチを超えていた。

花の直径が大きかった。

空が青かった。

雲が白かった。

黄色と緑と青と白が、今日の色だった。

しばらく、二人は黙って見ていた。

蓮はポケットを感じた。

ケースの重みがあった。

九十日間、準備していたミッションだった。

でも、桐島は「お前らしくやれ」と言った。

高梨は「誠実さが全てだ」と言った。

どちらも、今日この瞬間に集約されていた。

「陽菜さん」蓮は言った。

「はい」

蓮はポケットに手を入れた。

ケースを取り出した。

陽菜が見た。

小さなケースだった。

「これは」陽菜の声が変わった。

蓮はケースを開けた。

リングがあった。

細工が光を拾って、小さく輝いた。

黄色い向日葵の中で、それは静かに光っていた。

「陽菜さんの左手をください」

陽菜は少し間を置いた。

手を出した。

蓮はリングを持った。

左手薬指に、添えた。

滑り込んだ。

十四・七ミリ。

完璧に入った。

誤差ゼロだった。

陽菜は自分の手を見た。

向日葵の前で、リングが光っていた。

フィボナッチ数列の細工が、向日葵の種子の螺旋と同じパターンで、光を反射していた。

「蓮さん」陽菜は言った。

声が少し震えていた。

「はい」

「これは、もしかして」

「プロポーズです」

陽菜は蓮を見た。

蓮は陽菜を見た。

「用意していた言葉がありました」蓮は言った。「九十日間、考えていました。フィボナッチ数列の説明と、向日葵の花言葉の引用と、俺の優先順位の最終確認と」

「全部、覚えているんですよね」

「全部あります。でも」

「でも」

「今、全部忘れました」

陽菜は少し笑った。

泣きそうな笑顔だった。

「忘れたんですか」

「忘れました。向日葵を見た瞬間に、全部飛びました」

「それは」陽菜は言った。「記録外の現象ですね」

「はい。でも」蓮は続けた。「一つだけ残っています」

「なんですか」

「あなたを記録し続けたいです」

陽菜は動かなかった。

向日葵が揺れていた。

風が来た。

「俺の人生に、あなたというノイズが入ってから」蓮は続けた。「全ての記録が色鮮やかになりました。コーヒーの味も。コブシの花の色も。向日葵の黄色も。全部、あなたが来てから変わりました」

「ノイズ、という言い方ですね」

「最初はノイズでした。今は」

「今は」

「ノイズではありません。OSの一部です。あなたがいなければ、俺のシステムは動きません」

陽菜は少し間を置いた。

「最初にノイズと呼んだことは、怒りますよ」

「後から謝ります。何度でも」

「何度でも」陽菜は繰り返した。

「はい。俺は全部覚えているので、何度でも謝れます」

陽菜は蓮を見た。

目が潤んでいた。

でも、笑っていた。

「計算しました」陽菜は言った。

「今でも計算しますか」

「この一瞬だけ」陽菜は続けた。「私の人生の全ての計算の中で、蓮さんとのこれからが、最も高い期待値を持っています」

「それは」

「告白というか、答えです」陽菜は言った。「私も、あなたを記録し続けます。あなたが記録したものを、私が計算する。そうやって、ずっと」

向日葵が揺れた。

黄色い波が、また来た。

蓮は陽菜の手を握った。

リングの細工が、指の間で光った。

陽菜の手が温かかった。

いつも通りの温かさだった。

でも今日は、これからずっと続く温かさだと思った。

「蓮さん」陽菜は言った。

「はい」

「記録していますか、今」

「できていません」

「なぜですか」

「感じることの方が先に来ていて、記録が追いつかない」

陽菜は少し笑った。

「それでいいです」

「でも、後から全部記録します」

「全部記録したら、教えてください」

「一秒も欠けずに」

陽菜は少し前に来た。

蓮の胸に、頭を預けた。

そのまま、少し泣いた。

声は出なかった。

でも、泣いていた。

蓮は動かなかった。

向日葵が揺れていた。

三万本が、一緒に揺れていた。

【記録:202X年7月二十三日 14:33】

プロポーズ:成功。

場所:向日葵畑。

言えた言葉:「あなたを記録し続けたい」。

言えなかった言葉:フィボナッチ数列の説明、その他多数。

フィッティング:十四・七ミリ、誤差ゼロ。

陽菜の返答:記録済み。

これ以降の記録は、公開不要。

二人だけのアーカイブへ移行。

帰り道、電車の中で陽菜が蓮の隣に座っていた。

窓の外に、夏の景色が流れていた。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「今日から、記録は変わりますか」

蓮は少し考えた。

「一人の記録から、二人の記録になります」

「二人で記録する、ということですか」

「俺が記録して、陽菜さんが見る。陽菜さんが計算して、俺が記録する。それが続いていきます」

陽菜は窓の外を見た。

「永遠に続けられますか」

「俺の記憶は劣化しません。記録は続けられます」

「計算も続けます」陽菜は言った。「あなたが記録する限り」

「じゃあ、永遠です」

陽菜は少し笑った。

「永遠という言葉を、あなたが使いましたね」

「使いました」

「珍しい」

「珍しいですが、今日は正確な言葉です」

陽菜は蓮の手を握った。

リングが光の中で少し輝いた。

電車が走り続けた。

向日葵の畑が、遠くなっていった。

でも、記録の中には、ずっと残っていた。


第90話 了


【第六章「新しい記録」71〜90話 完結】


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