第90話「三万本の黄金、あるいは記録された永遠」
朝、目が覚めた。
いつも通りの天井だった。
でも、今日は違った。
カウントダウンがゼロになる日だった。
蓮は起き上がった。
棚から記録帳を取り出した。
三十二ページ目を開いた。
コブシの押し花があった。
その隣に、ケースがあった。
取り出した。
開けた。
リングがあった。
フィボナッチ数列の細工。
向日葵の種子の螺旋と同じ配置。
光が入った。
細工が小さく輝いた。
ケースを閉じた。
コートのポケットに入れた。
心拍数を確認しようとした。
【エラー:心拍数計測不能。上限超過】
九十日間、このエラーを待っていた。
事務所に向かった。
陽菜が来ていた。
いつも通りだった。
でも、コートが少し違った。
今日の陽菜のコートは、明るい色だった。
いつも選ばない色だった。
「おはようございます」陽菜が言った。
「おはようございます」
「今日、どこかに行きますか」
「はい」
「どこへ」
「四月に行った場所です」
陽菜は少し間を置いた。
「今日ですね」
それだけ言った。
行き先を聞かなかった。
わかっているような目をしていた。
「コート、いつもと違いますね」蓮は言った。
「今日は、明るい方がいいと思いました」陽菜は答えた。「理由は、よくわかりませんでしたが」
「似合っています」
「ありがとうございます」
陽菜は少し目を細めた。
「蓮さん、顔色が違いますね」
「どう違いますか」
「緊張しているんですか」
「……セキュリティの確認が完了していないので」
「そうですか」陽菜は笑った。「では行きましょう」
電車を乗り継いだ。
四月の時と同じルートだった。
でも、窓の外の景色が違った。
緑が濃かった。
光が強かった。
空が高かった。
夏だった。
最寄り駅で降りた。
バスに乗った。
降りた場所に立った。
四月に来た時と同じ場所だった。
でも、全部が違った。
「……」
蓮は言葉を失った。
向日葵が、あった。
見渡す限り、向日葵が咲いていた。
土だった場所が、黄色だった。
三万本。
全部が太陽を向いていた。
黄色と緑と青が、地平線まで続いていた。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「見て。本当に波になっています」
風が来た。
三万本の向日葵が、一斉に揺れた。
黄色い波だった。
波が、東から西へ流れた。
次の波が来た。
また揺れた。
蓮は計算しようとした。
できなかった。
計算が、追いつかなかった。
計算より、見ていることの方が、先に来ていた。
視覚情報が、処理能力を超えていた。
「どうですか」陽菜が言った。
「…計算していた通りでした」
「そうじゃなくて」
「計算より、現実の方が、鮮やかでした」
陽菜は向日葵を見た。
「四月に来た時は、ここは土だった」陽菜は言った。「何もなかった。でも蓮さんには見えていた」
「レンダリングしていました」
「レンダリングよりも、本物の方が良かったですか」
蓮は少し考えた。
「比較できません。どちらも、正確でした。ただ」
「ただ」
「今日の向日葵を、一緒に見られることが、加わりました」
陽菜は少し蓮を見た。
また前を向いた。
風が来た。
黄色い波が、また押し寄せた。
畑沿いの道を歩いた。
四月に座ったベンチがあった。
二人で座った。
向日葵が目の前にあった。
高さが百五十センチを超えていた。
花の直径が大きかった。
空が青かった。
雲が白かった。
黄色と緑と青と白が、今日の色だった。
しばらく、二人は黙って見ていた。
蓮はポケットを感じた。
ケースの重みがあった。
九十日間、準備していたミッションだった。
でも、桐島は「お前らしくやれ」と言った。
高梨は「誠実さが全てだ」と言った。
どちらも、今日この瞬間に集約されていた。
「陽菜さん」蓮は言った。
「はい」
蓮はポケットに手を入れた。
ケースを取り出した。
陽菜が見た。
小さなケースだった。
「これは」陽菜の声が変わった。
蓮はケースを開けた。
リングがあった。
細工が光を拾って、小さく輝いた。
黄色い向日葵の中で、それは静かに光っていた。
「陽菜さんの左手をください」
陽菜は少し間を置いた。
手を出した。
蓮はリングを持った。
左手薬指に、添えた。
滑り込んだ。
十四・七ミリ。
完璧に入った。
誤差ゼロだった。
陽菜は自分の手を見た。
向日葵の前で、リングが光っていた。
フィボナッチ数列の細工が、向日葵の種子の螺旋と同じパターンで、光を反射していた。
「蓮さん」陽菜は言った。
声が少し震えていた。
「はい」
「これは、もしかして」
「プロポーズです」
陽菜は蓮を見た。
蓮は陽菜を見た。
「用意していた言葉がありました」蓮は言った。「九十日間、考えていました。フィボナッチ数列の説明と、向日葵の花言葉の引用と、俺の優先順位の最終確認と」
「全部、覚えているんですよね」
「全部あります。でも」
「でも」
「今、全部忘れました」
陽菜は少し笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「忘れたんですか」
「忘れました。向日葵を見た瞬間に、全部飛びました」
「それは」陽菜は言った。「記録外の現象ですね」
「はい。でも」蓮は続けた。「一つだけ残っています」
「なんですか」
「あなたを記録し続けたいです」
陽菜は動かなかった。
向日葵が揺れていた。
風が来た。
「俺の人生に、あなたというノイズが入ってから」蓮は続けた。「全ての記録が色鮮やかになりました。コーヒーの味も。コブシの花の色も。向日葵の黄色も。全部、あなたが来てから変わりました」
「ノイズ、という言い方ですね」
「最初はノイズでした。今は」
「今は」
「ノイズではありません。OSの一部です。あなたがいなければ、俺のシステムは動きません」
陽菜は少し間を置いた。
「最初にノイズと呼んだことは、怒りますよ」
「後から謝ります。何度でも」
「何度でも」陽菜は繰り返した。
「はい。俺は全部覚えているので、何度でも謝れます」
陽菜は蓮を見た。
目が潤んでいた。
でも、笑っていた。
「計算しました」陽菜は言った。
「今でも計算しますか」
「この一瞬だけ」陽菜は続けた。「私の人生の全ての計算の中で、蓮さんとのこれからが、最も高い期待値を持っています」
「それは」
「告白というか、答えです」陽菜は言った。「私も、あなたを記録し続けます。あなたが記録したものを、私が計算する。そうやって、ずっと」
向日葵が揺れた。
黄色い波が、また来た。
蓮は陽菜の手を握った。
リングの細工が、指の間で光った。
陽菜の手が温かかった。
いつも通りの温かさだった。
でも今日は、これからずっと続く温かさだと思った。
「蓮さん」陽菜は言った。
「はい」
「記録していますか、今」
「できていません」
「なぜですか」
「感じることの方が先に来ていて、記録が追いつかない」
陽菜は少し笑った。
「それでいいです」
「でも、後から全部記録します」
「全部記録したら、教えてください」
「一秒も欠けずに」
陽菜は少し前に来た。
蓮の胸に、頭を預けた。
そのまま、少し泣いた。
声は出なかった。
でも、泣いていた。
蓮は動かなかった。
向日葵が揺れていた。
三万本が、一緒に揺れていた。
【記録:202X年7月二十三日 14:33】
プロポーズ:成功。
場所:向日葵畑。
言えた言葉:「あなたを記録し続けたい」。
言えなかった言葉:フィボナッチ数列の説明、その他多数。
フィッティング:十四・七ミリ、誤差ゼロ。
陽菜の返答:記録済み。
これ以降の記録は、公開不要。
二人だけのアーカイブへ移行。
帰り道、電車の中で陽菜が蓮の隣に座っていた。
窓の外に、夏の景色が流れていた。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「今日から、記録は変わりますか」
蓮は少し考えた。
「一人の記録から、二人の記録になります」
「二人で記録する、ということですか」
「俺が記録して、陽菜さんが見る。陽菜さんが計算して、俺が記録する。それが続いていきます」
陽菜は窓の外を見た。
「永遠に続けられますか」
「俺の記憶は劣化しません。記録は続けられます」
「計算も続けます」陽菜は言った。「あなたが記録する限り」
「じゃあ、永遠です」
陽菜は少し笑った。
「永遠という言葉を、あなたが使いましたね」
「使いました」
「珍しい」
「珍しいですが、今日は正確な言葉です」
陽菜は蓮の手を握った。
リングが光の中で少し輝いた。
電車が走り続けた。
向日葵の畑が、遠くなっていった。
でも、記録の中には、ずっと残っていた。
第90話 了
【第六章「新しい記録」71〜90話 完結】
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




