第89話「季節外れの決意、あるいは薬指の記憶」
三日間、十四・七ミリという数字が、頭の中を離れなかった。
仕事中も。
コーヒーを飲んでいる時も。
陽菜が笑っている時も。
その笑顔の隣に、十四・七ミリという数字があった。
「行くしかない」
朝、一人でそう決めた。
陽菜には「個人的な用件がある」と伝えた。
桐島には連絡しなかった。
「ニヤニヤされる」とわかっていたので。
電車に乗った。
銀座へ向かった。
「ダイヤモンドの硬度は十」
電車の中で、独り言を言った。
「しかし、愛の強さを測る尺度は、俺のアーカイブに存在しない」
隣の乗客が少し距離を取った。
気づかなかった。
宝飾店は、静かだった。
ガラスのケースが並んでいた。
光が反射していた。
店員が来た。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
「指輪を購入したいです」
「ありがとうございます。婚約指輪でしょうか」
「はい」
「お相手のサイズはご存知ですか」
「内径十四・七ミリ、誤差〇・〇五ミリ以内です」
店員が少し止まった。
「……誤差〇・〇五ミリ以内、ですか」
「はい。〇・〇五ミリを超えると着け心地に影響が出ます。目視計測ですが、精度は高いと自負しています」
「目視で」
「陽菜さんの左手薬指を、三ヶ月間、複数の角度から計測した平均値です」
店員は少し固まった。
「……なるほど」
「それと、素材については」蓮は続けた。「日常的に使用することを前提として、耐久性を優先してください。プラチナかチタンで、表面硬度の数値を教えてください」
「プラチナが一般的で」
「光の屈折率も確認したいです。陽菜さんがよく日光の下で作業をするので、反射が強すぎると目に負担がかかります」
店員は少し間を置いた。
「お相手のイメージは、どのような方ですか」
蓮は少し考えた。
「向日葵のような、計算外の熱量を持った女性です」
店員は蓮を見た。
「……かしこまりました。いくつかお見せします」
ケースが並んだ。
十数点のリングが、光の下に置かれていた。
蓮は一つ一つを確認した。
【照合開始:デザイン分析】
一点目。石の配置が対称すぎた。
二点目。帯が太かった。陽菜の指には合わない。
三点目。シンプルすぎた。悪くはなかったが、何かが違った。
四点目。
止まった。
細かい細工が施されたリングだった。
石が大きくなかった。
でも、石の周りの金属の細工が、複雑だった。
【照合:細工のパターン分析】
見た。
細工の配置に、規則性があった。
黄金角だった。
植物が種子を配置する時の、自然界の法則だった。
向日葵が種子を配置する時の、あの螺旋と同じ数列だった。
フィボナッチ数列。
「これを見せてください」
店員がケースから取り出した。
手に持った。
光が入ってきた。
細工が光を拾った。
ちらちらと、小さく輝いた。
「この細工のパターンは」蓮は言った。「黄金角に基づいていますか」
店員は少し驚いた顔をした。
「はい、よくご存知で。このシリーズは、フィボナッチ数列を基にしたデザインで」
「向日葵の種子の配置と同じです」
「……おっしゃる通りです」
蓮はリングを持ったまま、少し間を置いた。
【照合:陽菜さんが好む自然の秩序と一致。向日葵の黄金角。計算と自然が交わる点】
「これにします」
購入手続きをしている間、蓮は自分の左手を見た。
手のひらを開いた。
閉じた。
三年前の手と、今日の手。
同じ手だった。
でも、今日は少し温かかった。
以前の手は、データを記録するための手だった。
今日の手は、陽菜の手を触れた記憶がある手だった。
その違いが、今日ははっきりわかった。
「お客様」店員が言った。
「はい」
「包装はいかがしますか」
「シンプルなケースで構いません。目立たない方がいいです」
「かしこまりました」
「一つ確認させてください」蓮は言った。「このリングは、長期保管した場合、品質に変化が生じますか」
「適切な環境であれば問題ありません」
「密閉された紙の間での保管は問題ありませんか」
店員はまた少し固まった。
「……問題ありません」
「わかりました」
事務所に戻った。
陽菜はクライアントと電話中だった。
蓮はコートを脱いだ。
鞄の中のケースを確認した。
小さなケースだった。
陽菜の電話が終わった。
振り返る前に、蓮は棚に向かった。
古い記録帳を取り出した。
表紙を開いた。
三十二ページ目。
陽菜がくれたコブシの花の押し花が、はさんであるページだった。
白い花が、乾いて薄くなっていた。
でも、形は残っていた。
押し花の隣の隙間に、ケースを入れた。
記録帳を閉じた。
棚に戻した。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「さっきから記録帳を何度も確認していますね」
「バックアップの整合性を確かめています」
「記録帳の整合性を、物理的に確認するんですか」
「念のため」
陽菜はしばらく蓮を見た。
「最近、念のための確認が増えていますね。セキュリティの確認も、現地調査も、今日は記録帳の整合性確認も」
「……徹底的な記録管理が弊社の方針です」
「弊社の方針は私も理解しています」陽菜は少し笑った。「でも、今日から追加された方針ですね」
「継続的に改善中です」
陽菜は蓮を見た。
何かを確信しているような目だった。
でも聞かなかった。
「コーヒー淹れます」陽菜は言った。
「ありがとうございます」
夜、一人で計算した。
向日葵の畑。
あの農家が例年向日葵を植える時期。
開花から満開までの日数。
見頃の期間。
「七月の後半」
声に出して確認した。
今日から逆算した。
【記録:202X年4月十五日】
七月の後半まで。
約九十日だった。
九十日間。
その間、陽菜の隣で仕事をする。
コーヒーを飲む。
散歩に行く。
手紙を書く。
記録する。
その全部が、九十日のカウントダウンだった。
「ミッション成功まで、あと九十日」
ノートに書いた。
書いてから、少し笑った。
カウントダウン、という言葉を使うのは久しぶりだった。
でも今回のカウントダウンは、消えていくものではなかった。
増えていくものに向かうカウントダウンだった。
【記録:202X年4月十五日 23:12】
物理的資産(指輪)確保完了。
隠匿場所:記録帳三十二ページ。コブシの押し花の隣。
ミッション成功まで:九十日。
棚の記録帳を見た。
静かにそこにあった。
九十日後、あのリングが出てくる日を、蓮は静かに待つことにした。
待つことが、今は苦ではなかった。
記録は待つことができる、と老人の話から学んでいた。
蓮も今日から、待つことにした。
九十日間、陽菜の隣で。
第89話 了
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