第68話「記録の祝祭、あるいは新しい会社の産声」
陽菜がノートパソコンを持ってきた。
「見てください」
画面にロゴが表示されていた。
細い線で描かれた図形だった。
一本の線が、右に流れていた。
途中で折れ、また続いた。
また折れた。
また続いた。
万年筆の軌跡のような線だった。
その下に、社名が入っていた。
「Margin Notes」
蓮は画面を見た。
「意味は」
「余白の記録、という意味です」陽菜は言った。「本の余白に書き込みをする、あの行為から取りました。大事なことは余白に書く。主文ではなく、余白に」
蓮は少し考えた。
「三年前の俺が、シュレッダーにかけられる前の書類を読んでいたのも、余白に近い行為でしたね」
「そうです。誰も注目しない場所を、あなたはずっと見ていた」陽菜は続けた。「記録を価値に変える場所。それが私たちの会社です」
蓮はロゴを見た。
万年筆の軌跡。
折れながら、続いている線。
「いいと思います」
陽菜は少し笑った。
「桐島さんにも見せました。『お前らしいな』と言っていました」
「どちらに向けて言ったんですか」
「私に向けて言っていましたが、あなたのことも含んでいたと思います」
桐島が奥から出てきた。
「登記の書類、今日取りに行ってくる。陽菜さん、法人印鑑のデザインは決まったか」
「決まりました」
「よし。蓮、お前はオフィス候補を三つ絞っておけ。条件は言っただろ」
「はい。今日中に出します」
桐島がコートを着て出ていった。
事務所が少し静かになった。
昼前から、人が来た。
田辺社長が最初だった。
大きな紙袋を持っていた。
「お祝いです」田辺は言った。「うちの取引先にも声をかけました。今日来られない分は、後日まとめて届けます」
次に、中小企業のオーナーが三人来た。
帝都物産の件で、間接的に蓮の記録が役立った企業だった。
知らない顔だった。
でも全員が、蓮の顔を知っていた。
「篠原さん、初めてお目にかかります」一人が言った。「うちは食品の卸売りですが、三年前に帝都物産に不当な単価引き下げを押し付けられていました。篠原さんの証拠で、その事実が公になって。去年から正常な価格に戻りました」
「覚えていますか」別の一人が言った。「三年前の書類に、うちの会社の名前が」
「覚えています」蓮は答えた。「〇〇食品さんですね。帝都物産の発注記録に、三年連続で十二パーセントずつ単価が引き下げられていました。最終年度の単価は、適正値の半分を下回っていた」
オーナーが目を丸くした。
「……本当に覚えているんですね」
「はい」
「篠原さんの記憶に、うちの会社の再起が刻まれているのが誇りです」
蓮は少し間を置いた。
「誇りに思ってもらえるとは、思っていませんでした」
オーナーが笑った。
次々と人が来た。
差し入れが増えた。
事務所のテーブルが埋まった。
蓮の脳内で、記録が走った。
【記録:感謝の言葉、受信中】
一件目、二件目、三件目。
数えながら、止めた。
数えなくていい、と思った。
全部を数値化しなくていい記録があると、今日は思った。
「篠原さん」田辺が言った。「一つだけ聞いていいですか」
「はい」
「記録するのは、つらくなかったですか。三年間、全部覚えていたこと」
部屋が少し静かになった。
蓮は少し考えた。
「つらいという感情が来る前に、記録が走っていました」
「それは」
「つらかったかどうか、記録しながら感じている暇がなかったということです。でも」蓮は続けた。「今日を見ると、あの三年間があったから今日があると思えます。つらかったかどうかより、必要だったかどうかの方が、今は重要に感じます」
田辺は少し考えた。
「必要だったんですね」
「はい」
「そうか」田辺は笑った。「俺も、帝都物産にやられていた時期があったから、今がある。そう思えるようになりました。篠原さんのおかげで」
蓮はそれを聞いた。
記録した。
【感謝の言葉、記録中。分類:幸福】
幸福という分類を使ったのは、最近のことだった。
三年前には、この分類がなかった。
夕方になった。
一人、また一人と帰っていった。
田辺社長が最後に「また来ます」と言って出ていった。
事務所に、蓮と陽菜と桐島の三人が残った。
テーブルの上に、差し入れの残りが並んでいた。
「盛況だったな」桐島は言った。
「はい」
「お前が三年前に何をしていたか、今日初めてわかった気がする」桐島は続けた。「お前が覚えていたことが、何十社もの人間の今日に繋がっていた。すごいことだよ、本当に」
蓮は答えなかった。
でも、桐島の言葉を記録した。
「俺は今夜早めに帰る」桐島は立ち上がった。「登記が明日完了する。法人印鑑も届く。お前らは今夜、新しい会社の最初の打ち合わせでもしておけ」
「ありがとうございます」陽菜が言った。
桐島が出ていった。
ドアが閉まった。
事務所に二人だけが残った。
陽菜がコーヒーを淹れた。
蓮の前に置いた。
自分の分も持って、蓮の隣に座った。
二人で、テーブルの上の差し入れを少し片づけた。
「今日、どうでしたか」陽菜が聞いた。
「記録が多かったです」
「数値で?」
「数値ではなく、感触で」蓮は答えた。「今日来た人たちの言葉が、三年前の重さと違う感触で記録されています」
「どんな感触ですか」
「軽い。でも深い。矛盾していますが、そう感じます」
陽菜は少し笑った。
「軽くて深いというのは、良いものです」
「そうですか」
「心が動いているということだから」
蓮はコーヒーを飲んだ。
今日の豆の味がした。
陽菜が選んだ豆だった。
「一つ見せたいものがあります」陽菜は言った。
立ち上がった。
棚から小さな箱を持ってきた。
開けた。
中に、看板が入っていた。
小さい。手のひらサイズだった。
「Margin Notes」というロゴが入っていた。
デスクに置くための表札だった。
「試作品です」陽菜は言った。「本物は来週届きます。でも、今日見てもらいたかった」
蓮は看板を手に取った。
万年筆の軌跡のような線。
折れながら続いている。
「ここから、私たちの新しい記録が始まりますね」陽菜は言った。
「はい」
「怖いですか」
蓮は看板を見た。
「怖いという感情が来る前に」蓮は言いかけた。
陽菜が笑った。
「今度は何が来ましたか」
「楽しみが来ました」
陽菜の笑顔が、少し変わった。
「初めて聞きました、そう言うの」
「二回目です。桐島さんにも言いました」
「今日初めて、ということですね」
「はい」
蓮は鞄から、新しいノートを出した。
まだ開いていなかった。
表紙が白かった。
万年筆を取り出した。
「最初の一行、何を書きますか」陽菜が言った。
蓮はノートを開いた。
最初のページ。
白かった。
何も書いていなかった。
万年筆を動かした。
事実だけを書いてきた三年間。
日付と数字と出来事。
今夜は違うものを書こうと思った。
書いた。
『202X年〇月〇日。新しい記録が始まる。記録の向こう側に、陽菜がいる』
書き終えた。
陽菜が覗き込んだ。
読んだ。
何も言わなかった。
でも、目の端が動いた。
「いいですか」蓮は言った。「この一行で」
「完璧です」陽菜は答えた。
【記録:202X年〇月〇日 23:50】
新会社設立準備、完了。
看板、確認。社名:Margin Notes。
新しいノート、最初の一行:記録済み。
カウントダウン:13日。
「次の記録が楽しみです」蓮は言った。
自然に、言葉が出た。
陽菜が蓮を見た。
「今、すごくいい顔をしていますよ」
「どんな顔ですか」
「記録してください」陽菜は言った。「今夜のあなたの顔を、自分で覚えておいてください」
蓮は少し間を置いた。
「記録しました」
「何と分類しましたか」
「幸福」
陽菜は笑った。
今夜一番の笑顔だった。
事務所の窓から夜景が見えた。
「Margin Notes」の小さな看板が、デスクの端に置かれていた。
新しい記録の、最初の夜だった。
第68話 了
この作品が少しでも気になったら、★評価とブックマークをいただけると励みになります。次回更新の力になります。引き続きよろしくお願いします。




