第67話「空白の十五日、あるいは記録の引継ぎ」
検察庁の廊下は長かった。
蓮と高梨が並んで歩いた。
足音だけが聞こえた。
「裁判官が驚いていたよ」高梨は言った。「君の記録は、法廷でも一字一句揺らがなかった。日付、金額、口座番号。全部が一致した」
「揺らぐ理由がありません」
「なぜですか、と裁判官が聞いていた」
「起きたことは、変えられないからです」蓮は答えた。「俺が記録していなくても、起きたことは起きています。俺はただ、それを出力しただけです」
高梨は少し笑った。
「そう言われると、君の能力は特別なものじゃなく、ただ正確なものに聞こえる」
「特別ではないと思っています」
「そうかな」高梨は続けた。「俺は十五年かけてやろうとしたことを、君は三年の記録で完成させた。それは特別じゃないとは言えない」
蓮は廊下の先を見た。
「高梨さんが十五年追いかけていなかったら、俺の記録は法廷で使えませんでした。どちらが欠けても、今日はなかった」
高梨は少し間を置いた。
「うまいことを言う」
「事実です」
二人は廊下の突き当たりまで歩いた。
「今日の証言で、主要な件は揃った」高梨は言った。「エドワードは沈黙を続けているが、外堀が埋まっている。余罪の立証も時間の問題だ」
「残り十四日で、全部固められますか」
「やってみる」高梨は立ち止まった。「篠原くん」
「はい」
「今日で、君に頼む証言は最後だ。後は俺と後任で進める」
蓮は高梨を見た。
「本当にありがとうございました」
「礼はいい」高梨は言った。「ただ、一つだけ頼みがある」
「なんですか」
「君の脳を、少し休ませてやれ」
夕方、事務所に義隆が来た。
連絡なしだった。
ドアを開けて、入ってきた。
コートを着ていた。いつもの会長室の格とは違う、普通のコートだった。
桐島が「どうぞ」と席を勧めた。
義隆は座らなかった。
蓮の前に立った。
深く頭を下げた。
「すまなかった」
部屋が静かになった。
「エドワードの件、陽菜の件。私の判断が何度も間違えた。篠原くん、君を信頼する前に疑った。君の力を、会社の都合で測ろうとした」
蓮は義隆を見た。
頭を下げている義隆の白髪を見た。
何かが来るかと思った。
怒りか、感慨か、あるいは満足か。
何も来なかった。
ただ、静かだった。
「顔を上げてください」蓮は言った。
義隆が顔を上げた。
「三年前の記録は、もう閉じました」蓮は続けた。「会長への記録も、同じフォルダに入っています。今、目の前にあるのは新しい日付です」
義隆は少し目を細めた。
「……器が大きいな」
「そういうわけではありません。閉じた記録を開き続けることに、意味がないと気づいただけです」
義隆は椅子に座った。
「今後の話をしたい」義隆は言った。「君の能力と陽菜の判断力を、瀬川商事に正式に迎えたい。条件は君たちが決めていい」
「少し待ってください」陽菜が言った。
陽菜は自分のデスクから、一枚の紙を持ってきた。
「私が考えていたことがあります」陽菜は紙を義隆に渡した。「組織に属さない形での、独立したコンサルティング会社の設立案です。瀬川商事とは取引関係を持ちますが、別の企業とも取引できる独立した立場を保ちます」
義隆は紙を見た。
「瀬川商事の傘下ではなく」
「はい。傘下に入れば、また同じことが起きる可能性があります」陽菜は続けた。「私たちが独立した立場を持つことで、お父様の計算の外にある視点を提供できます。それが本当の意味での助けになると思っています」
義隆は紙から顔を上げた。
「……お前は本当に変わった」
「変えてもらいました」
義隆は蓮を見た。
「条件はどうする」
「陽菜さんが計算します」蓮は答えた。「俺の仕事は記録です」
義隆は少し笑った。
七十代の老人の笑顔だった。
父親の笑顔だった。
「わかった。陽菜に任せる」
夜、高梨の荷造りを手伝った。
検察庁の近くの仮住まいに、段ボールが並んでいた。
多くなかった。
高梨は長年、荷物を増やさなかった人間だった。
「これが全部ですか」蓮は言った。
「本棚の本が多いが、それは送る」高梨はテープを貼りながら言った。「身一つで来て、身一つで去るのが性分でな」
蓮は段ボールを一つ持った。
重かった。
「高梨さん」
「なんだ」
蓮は手に持っていたものを出した。
ノートだった。
今回の件で使ったノートではなかった。
三年前から書き続けている、一番古いノートだった。
「これを」蓮は言いかけた。
高梨が手を上げた。
「いらない」
「記録のバックアップになります。万が一、俺の記憶に何かあった時に」
「それは君が持っておけ」高梨は段ボールを閉めた。「俺は、君がここにいることを覚えているだけで十分だ」
蓮はノートを持ったまま、高梨を見た。
「俺の記憶に何かあった時」
「その時は連絡をくれ。地方にいても、電話は使える」高梨は笑った。「ただの電話番号だが、十五年前の証人と同じくらいは役に立つかもしれない」
蓮はノートを鞄に戻した。
「もう一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「高梨さんは、どうして十五年間追い続けられたんですか。途中で諦めなかったのは」
高梨は少し考えた。
「諦めたことは何度もある。でも、忘れられなかった」高梨は窓の外を見た。「あの事件で傷ついた人間の顔を、忘れられなかった。覚えていたから、続けられた」
蓮は高梨を見た。
「俺と同じです」
「そうかもしれないな」高梨は段ボールを持った。「ただ、俺は全部は覚えていない。君と違って、普通の記憶しかない。だから余計なことも忘れられた。それが俺の強さかもしれない」
蓮は少し間を置いた。
「余計なことを忘れられる強さ」
「そうだ。君はそれが苦手だろう」
「苦手です」
「でも、最近は少し変わったんじゃないか」高梨は蓮を見た。「陽菜さんのことを記録している時、他のことを忘れる、と言っていたじゃないか」
蓮は少し考えた。
「そうかもしれません」
「それが答えだ」高梨は言った。「何かを本当に大切にする時、人間は他のことを忘れる。君は今、その練習をしている」
段ボールが積まれた部屋を、二人で見た。
「じゃあな、篠原くん」高梨は言った。
「はい」
「元気でいろよ」
「高梨さんも」
「俺は頑丈だから心配いらない」高梨は笑った。「それより、君の方が心配だ。身体に気をつけろ。脳だけじゃなく、体も使え」
「わかりました」
高梨が先に部屋を出た。
蓮は少し後から続いた。
廊下に出た。
蓮は振り返らなかった。
でも、この部屋の間取り、段ボールの数、高梨の笑顔が、全部記録されていた。
この記録は、しばらく参照頻度が高いままになるだろうと思った。
事務所に戻った。
窓の外に夜景が広がっていた。
いつもの夜景だった。
でも、今夜は少し違って見えた。
光が同じ光でも、密度が違った。
一つ一つの光が、ただの光ではなく、誰かの時間に見えた。
「どうでしたか」陽菜が言った。
「高梨さんは変わらずでした」
「寂しかったですか」
蓮は窓の外を見た。
「寂しいという感情が来る前に」蓮は言いかけた。
「記録が走る、ですね」陽菜が続けた。
「今夜は違いました」
陽菜が蓮を見た。
「寂しかったですか、本当に」
「寂しかったです」
陽菜は少し間を置いた。
それから、蓮の隣に来た。
窓の外を、一緒に見た。
「高梨さんの記録は、ずっとありますよ」陽菜は言った。「あなたの中に」
「はい」
「消えない記録が、あなたを作っています。その中に高梨さんもいる。それは寂しいことじゃないと思います」
蓮は夜景を見た。
光が、穏やかだった。
【記録:202X年〇月〇日 22:14】
高梨誠一、引継ぎ完了。残された時間、大切に使用。
カウントダウン:14日。
夜景が、今夜は少し優しかった。
いつもの光だった。
でも、今夜は一つ一つが、きちんと見えた。
第67話 了
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