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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第五章「清算と反撃の三週間」

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第67話「空白の十五日、あるいは記録の引継ぎ」

検察庁の廊下は長かった。

蓮と高梨が並んで歩いた。

足音だけが聞こえた。

「裁判官が驚いていたよ」高梨は言った。「君の記録は、法廷でも一字一句揺らがなかった。日付、金額、口座番号。全部が一致した」

「揺らぐ理由がありません」

「なぜですか、と裁判官が聞いていた」

「起きたことは、変えられないからです」蓮は答えた。「俺が記録していなくても、起きたことは起きています。俺はただ、それを出力しただけです」

高梨は少し笑った。

「そう言われると、君の能力は特別なものじゃなく、ただ正確なものに聞こえる」

「特別ではないと思っています」

「そうかな」高梨は続けた。「俺は十五年かけてやろうとしたことを、君は三年の記録で完成させた。それは特別じゃないとは言えない」

蓮は廊下の先を見た。

「高梨さんが十五年追いかけていなかったら、俺の記録は法廷で使えませんでした。どちらが欠けても、今日はなかった」

高梨は少し間を置いた。

「うまいことを言う」

「事実です」

二人は廊下の突き当たりまで歩いた。

「今日の証言で、主要な件は揃った」高梨は言った。「エドワードは沈黙を続けているが、外堀が埋まっている。余罪の立証も時間の問題だ」

「残り十四日で、全部固められますか」

「やってみる」高梨は立ち止まった。「篠原くん」

「はい」

「今日で、君に頼む証言は最後だ。後は俺と後任で進める」

蓮は高梨を見た。

「本当にありがとうございました」

「礼はいい」高梨は言った。「ただ、一つだけ頼みがある」

「なんですか」

「君の脳を、少し休ませてやれ」

夕方、事務所に義隆が来た。

連絡なしだった。

ドアを開けて、入ってきた。

コートを着ていた。いつもの会長室の格とは違う、普通のコートだった。

桐島が「どうぞ」と席を勧めた。

義隆は座らなかった。

蓮の前に立った。

深く頭を下げた。

「すまなかった」

部屋が静かになった。

「エドワードの件、陽菜の件。私の判断が何度も間違えた。篠原くん、君を信頼する前に疑った。君の力を、会社の都合で測ろうとした」

蓮は義隆を見た。

頭を下げている義隆の白髪を見た。

何かが来るかと思った。

怒りか、感慨か、あるいは満足か。

何も来なかった。

ただ、静かだった。

「顔を上げてください」蓮は言った。

義隆が顔を上げた。

「三年前の記録は、もう閉じました」蓮は続けた。「会長への記録も、同じフォルダに入っています。今、目の前にあるのは新しい日付です」

義隆は少し目を細めた。

「……器が大きいな」

「そういうわけではありません。閉じた記録を開き続けることに、意味がないと気づいただけです」

義隆は椅子に座った。

「今後の話をしたい」義隆は言った。「君の能力と陽菜の判断力を、瀬川商事に正式に迎えたい。条件は君たちが決めていい」

「少し待ってください」陽菜が言った。

陽菜は自分のデスクから、一枚の紙を持ってきた。

「私が考えていたことがあります」陽菜は紙を義隆に渡した。「組織に属さない形での、独立したコンサルティング会社の設立案です。瀬川商事とは取引関係を持ちますが、別の企業とも取引できる独立した立場を保ちます」

義隆は紙を見た。

「瀬川商事の傘下ではなく」

「はい。傘下に入れば、また同じことが起きる可能性があります」陽菜は続けた。「私たちが独立した立場を持つことで、お父様の計算の外にある視点を提供できます。それが本当の意味での助けになると思っています」

義隆は紙から顔を上げた。

「……お前は本当に変わった」

「変えてもらいました」

義隆は蓮を見た。

「条件はどうする」

「陽菜さんが計算します」蓮は答えた。「俺の仕事は記録です」

義隆は少し笑った。

七十代の老人の笑顔だった。

父親の笑顔だった。

「わかった。陽菜に任せる」

夜、高梨の荷造りを手伝った。

検察庁の近くの仮住まいに、段ボールが並んでいた。

多くなかった。

高梨は長年、荷物を増やさなかった人間だった。

「これが全部ですか」蓮は言った。

「本棚の本が多いが、それは送る」高梨はテープを貼りながら言った。「身一つで来て、身一つで去るのが性分でな」

蓮は段ボールを一つ持った。

重かった。

「高梨さん」

「なんだ」

蓮は手に持っていたものを出した。

ノートだった。

今回の件で使ったノートではなかった。

三年前から書き続けている、一番古いノートだった。

「これを」蓮は言いかけた。

高梨が手を上げた。

「いらない」

「記録のバックアップになります。万が一、俺の記憶に何かあった時に」

「それは君が持っておけ」高梨は段ボールを閉めた。「俺は、君がここにいることを覚えているだけで十分だ」

蓮はノートを持ったまま、高梨を見た。

「俺の記憶に何かあった時」

「その時は連絡をくれ。地方にいても、電話は使える」高梨は笑った。「ただの電話番号だが、十五年前の証人と同じくらいは役に立つかもしれない」

蓮はノートを鞄に戻した。

「もう一つ聞いていいですか」

「なんだ」

「高梨さんは、どうして十五年間追い続けられたんですか。途中で諦めなかったのは」

高梨は少し考えた。

「諦めたことは何度もある。でも、忘れられなかった」高梨は窓の外を見た。「あの事件で傷ついた人間の顔を、忘れられなかった。覚えていたから、続けられた」

蓮は高梨を見た。

「俺と同じです」

「そうかもしれないな」高梨は段ボールを持った。「ただ、俺は全部は覚えていない。君と違って、普通の記憶しかない。だから余計なことも忘れられた。それが俺の強さかもしれない」

蓮は少し間を置いた。

「余計なことを忘れられる強さ」

「そうだ。君はそれが苦手だろう」

「苦手です」

「でも、最近は少し変わったんじゃないか」高梨は蓮を見た。「陽菜さんのことを記録している時、他のことを忘れる、と言っていたじゃないか」

蓮は少し考えた。

「そうかもしれません」

「それが答えだ」高梨は言った。「何かを本当に大切にする時、人間は他のことを忘れる。君は今、その練習をしている」

段ボールが積まれた部屋を、二人で見た。

「じゃあな、篠原くん」高梨は言った。

「はい」

「元気でいろよ」

「高梨さんも」

「俺は頑丈だから心配いらない」高梨は笑った。「それより、君の方が心配だ。身体に気をつけろ。脳だけじゃなく、体も使え」

「わかりました」

高梨が先に部屋を出た。

蓮は少し後から続いた。

廊下に出た。

蓮は振り返らなかった。

でも、この部屋の間取り、段ボールの数、高梨の笑顔が、全部記録されていた。

この記録は、しばらく参照頻度が高いままになるだろうと思った。

事務所に戻った。

窓の外に夜景が広がっていた。

いつもの夜景だった。

でも、今夜は少し違って見えた。

光が同じ光でも、密度が違った。

一つ一つの光が、ただの光ではなく、誰かの時間に見えた。

「どうでしたか」陽菜が言った。

「高梨さんは変わらずでした」

「寂しかったですか」

蓮は窓の外を見た。

「寂しいという感情が来る前に」蓮は言いかけた。

「記録が走る、ですね」陽菜が続けた。

「今夜は違いました」

陽菜が蓮を見た。

「寂しかったですか、本当に」

「寂しかったです」

陽菜は少し間を置いた。

それから、蓮の隣に来た。

窓の外を、一緒に見た。

「高梨さんの記録は、ずっとありますよ」陽菜は言った。「あなたの中に」

「はい」

「消えない記録が、あなたを作っています。その中に高梨さんもいる。それは寂しいことじゃないと思います」

蓮は夜景を見た。

光が、穏やかだった。

【記録:202X年〇月〇日 22:14】

高梨誠一、引継ぎ完了。残された時間、大切に使用。

カウントダウン:14日。

夜景が、今夜は少し優しかった。

いつもの光だった。

でも、今夜は一つ一つが、きちんと見えた。


第67話 了


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