第66話「情報のビッグバン、あるいは予測モデルの死」
朝六時、蓮のスマホが鳴り始めた。
通知だった。
ニュースアプリ。金融情報。海外メディアの速報。
全部が、同じ件名だった。
蓮は画面を見た。
昨夜送信したデータが、世界を動かしていた。
【記録:202X年〇月〇日 06:04】
情報拡散確認。国内メディア、主要十一社が報道開始。海外メディア、英語圏五社、アジア圏三社が同時展開。
陽菜がオフィスに入ってきた。
外の空気をコートにつけたまま、スマホを見ていた。
「世界が」陽菜は言った。「あなたの記憶を読んでいます」
「正確には、俺の記憶を元に作成した書類を読んでいます」
「同じことです」陽菜は蓮の隣に座った。
震えていた。
興奮か、安堵か、あるいはその両方か。
「オムニ・データの株価は」
「市場開始直後にサーキットブレーカーが発動しました。売り注文が集中してストップ安です。現在も取引停止中」
「関連企業は」
「親会社が声明を出しています。『現在調査中』。関連した投資ファンドが二社、今朝の時点で出資引き上げを発表しました」
桐島が入ってきた。
「昨日まで沈黙していた取引先が、三社から連絡が来た」桐島は言った。「全部、『今後も取引を続けたい』という内容だ。昨日とは正反対だ」
「エドワードの圧力の根拠が崩れました」蓮は答えた。「彼らはエドワードに従うリスクと、従わないリスクを再計算している。今日の時点では、従わない方が安全という結論になっています」
「手のひらを返した、ということだな」
「はい。それも予測の範囲内です」
陽菜が義隆に電話した。
二コールで出た。
「見ました」義隆の声だった。「今朝、銀行の担当役員から『昨日の話はなかったことに』という連絡が来ました」
「わかりました」
「篠原くんに、伝えてください」義隆は続けた。「私の見る目がなかった。あの男のことを、最初から信じるべきだった」
陽菜は少し間を置いた。
「直接伝えてください、お父様」
電話が切れた。
午前九時、高梨から連絡が来た。
「令状を執行する。今から動く」
蓮は立ち上がった。
「一緒に行きます」
「来るなとは言えない立場だが」高梨は言った。「危険がある」
「記録します。現場の記録が必要な場面が来るかもしれません」
少し間があった。
「……わかった。ただし、捜査官の指示に従ってもらう」
「はい」
オムニ・データ日本支社のビルは、静かだった。
異様な静けさだった。
外には報道陣がいた。カメラが並んでいた。
でもビルの中は、音がしなかった。
高梨が先頭に立った。
捜査官が続いた。
蓮と陽菜はその後ろにいた。
エントランスを入った。
受付に社員が二人いた。
顔が白かった。
今朝の報道を見ていた目だった。
高梨が令状を示した。
「捜査令状です。ご協力をお願いします」
社員の一人が立ち上がろうとした。
もう一人が止めた。
両方とも、動けなかった。
エレベーターで上の階に行った。
フロアに出た。
デスクが並んでいた。
社員が十数人いた。
全員が、手を止めていた。
パソコンの画面が、一部消えていた。
シュレッダーの前に、誰かが立っていた。
でも動いていなかった。
シュレッダーに紙を入れかけたまま、止まっていた。
「そのまま止まっていてください」高梨が言った。
男は動かなかった。
「証拠隠滅になります」
男の手から、紙が落ちた。
捜査官が前に出た。
エドワードは、奥の個室にいた。
高梨がドアを開けた。
エドワードがデスクに座っていた。
スーツが整っていた。今朝も、それだけは整えていた。
でも目が違った。
昨日まであった余裕が、消えていた。
「エドワード・チェンさん」高梨は言った。「不正競争防止法違反、および個人情報保護法違反の容疑で、任意同行をお願いします」
エドワードは高梨を見た。
それから、高梨の後ろにいる蓮を見た。
「……来ましたか」エドワードは言った。
「来ました」蓮は答えた。
「昨日、令状の件は想定していなかった」エドワードは続けた。「お前の記憶力は把握していたが、その記憶を使って捜査令状を補完するルートまでは計算できなかった」
「十五年前の証人という変数が、俺の記録の中にあったからです」
「……その発想はなかった」
エドワードは立ち上がった。
抵抗しなかった。
捜査官がエドワードの横についた。
部屋を出た。
廊下を歩いた。
エレベーターの前で、エドワードが振り返った。
蓮を見た。
「なぜ、そこまでして私を壊したんだ」エドワードは言った。「私は君を高く評価していた。君の能力があれば、もっと大きな舞台で」
「壊したんじゃありません」蓮は答えた。
「では何だ」
「俺の中にあった三年前の記録が、今日という日付で終わっただけです」蓮は続けた。「三年前から今日まで、俺はただ覚えていた。覚えていたことが今日、法的な証拠になった。それだけです」
「それだけ、か」
「起きたことを記録しただけです。俺の意図で世界を動かしたわけじゃない。あなたたちが起こしたことが、記録されていただけです」
エドワードは少し間を置いた。
「……記録というのは」エドワードは静かに言った。「生きている間ずっと、追いかけてくるものなんだな」
「はい」蓮は答えた。「俺が三年間、追いかけられたように」
エレベーターが来た。
エドワードが乗った。
扉が閉まった。
オフィスが静かになった。
捜査官が各フロアで作業を続けていた。
高梨がエレベーターに乗る前に蓮を見た。
「終わったな」
「この件は」
「この件は、だな」高梨は少し笑った。「十五日残っている」
「はい。最後まで、お願いします」
「もちろんだ」
高梨が乗った。
扉が閉まった。
事務所に戻った。
桐島が「どうだった」と聞いた。
「エドワードは連行されました」
桐島は少し間を置いた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます」
陽菜が蓮の横に来た。
「大丈夫ですか」
「はい」
「今日、どんな感情でしたか」
蓮は少し考えた。
「静かでした」
「静か」
「三年前、黒川部長に解雇された日も静かでした。今日も静かです。全部が起きて、全部が終わって、静かです」
陽菜はそれを聞いた。
「悲しくはないですか」
「何が」
「戦いが終わることが」
蓮は少し間を置いた。
「終わっていません。十五日あります」
「その後は」
「その後は」蓮は陽菜を見た。「記録の中身が変わります。過去のものではなく、今日以降のものが増えていきます」
陽菜は蓮を見た。
「私との記録も」
「はい。今日からの陽菜さんの記録が、三年前からの記録より多くなる日が来ます」
陽菜は少し目を細めた。
「……それを楽しみに、十五日頑張ります」
蓮はデスクに向かった。
ノートを手に取った。
最後のページが開いていた。
昨夜、送信ボタンを押す前に書いた一行があった。
『全記録、公共の益のために使用。完了』
ノートを閉じた。
静かな音がした。
紙の音だった。
【記録:202X年〇月〇日 14:22】
エドワード・チェン、確保。
オムニ・データ日本支社、捜査令状執行。
記録の公共化:完了。
カウントダウン:15日。
ノートが閉じた。
新しい記録は、明日から始まる。
第66話 了
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