第65話「情報の包囲網、あるいは最後の揺らぎ」
令状が出た。
高梨がそれを手に持った。
薄い紙だった。
でも十五年分の重さがあった。
「これで動ける」高梨は言った。「オムニ・データ日本支社への正式な家宅捜索令状だ。広報の彼が内部で動いてくれた。差し止めは無効になった」
蓮は令状を見た。
紙一枚だった。
でも、この紙一枚が世界を変える。
「使える日数は」
「令状の有効期間は十日だ。その前に動く。ただ、タイミングが重要になる」高梨は続けた。「令状を執行するなら、エドワードが国外に出る前が望ましい。彼は今、移動の準備をしている可能性がある」
「昨日の電話以降、動いていると思います」蓮は答えた。「サーバーの件を知った。次は証拠の移動か、自分の退路を確保するかのどちらかです」
「どちらだと思う」
「両方を同時にやると思います。彼は予測するのが仕事です。自分への反撃も予測しようとする」
高梨は令状をしまった。
「カウントダウンは」
「十七日です」
【記録:202X年〇月〇日 09:33】
捜査令状発付。法的根拠:確定。
カウントダウン:17日。
午後、陽菜のスマホが鳴った。
義隆からだった。
陽菜が出た。
「陽菜」義隆の声は低かった。「今日の朝から、メインバンクの担当役員から連絡が来ている。来期の融資の条件を大幅に変更するという話だ。実質的な融資停止に等しい内容だ」
陽菜は立ったまま聞いた。
「エドワードが動かしたんですね」
「そうだと思う」義隆は続けた。「今日だけじゃない。取引先の三社から、今後の契約について再検討したいという連絡も来た。同じ日に、同じような話が重なるのは偶然じゃない」
「わかっています」
「陽菜」義隆の声が変わった。「すまない。私の計算が、奴の悪意に追いつかなかった」
陽菜は少し間を置いた。
「お父様が謝ることは何もありません」
「そうはいかない。今日、私の判断がお前と会社の両方を苦しめることになるかもしれない。それは経営者として、父親として、失敗だ」
「状況を教えてください。最悪の場合、どうなりますか」
義隆は話した。
融資が止まれば、来期の運転資金が不足する。取引先が三社抜ければ、売上の十数パーセントが消える。一年以内に、会社の規模を大幅に縮小せざるを得ない可能性がある。
「選択肢として」義隆は最後に言った。「篠原くんとの関係を公式に切れば、エドワードの圧力が止まる可能性がある。私はそれを強いるつもりはない。ただ、選択肢として伝えておく」
陽菜はスマホを持ったまま、少し間を置いた。
「わかりました。少し時間をください」
電話が切れた。
陽菜は蓮を見た。
「聞いていましたか」
「はい」
「全部」
「全部」
陽菜は少し笑った。
笑顔の下に、何かあった。
「蓮さん」
「はい」
「私、計算しようとしたんですが」陽菜は言った。「できなかった」
「なぜですか」
「計算のどの項目にも、あなたを切り捨てる選択肢が入らないんです。変数に入れようとすると、計算が止まる」
蓮は陽菜を見た。
「陽菜さん」
「なんですか」
「陽菜さんの計算は、正常です」
「でも、結果が出ない」
「正常な計算が、正しい答えを出さないことがあります」蓮は続けた。「計算できないものを、計算しようとしているから止まるんです」
陽菜は蓮を見た。
「では、どうすればいいですか」
「計算は終わりました」蓮は答えた。「ここからは賭けです」
「賭け」
「はい。俺の記録全部を使う賭けです」
蓮は立ち上がった。
ノートを持った。
一ページ目から最後まで、作業してきた記録が入っていた。
「エドワードは予測で動きました。俺は記録で動きます。彼は俺の記録の全量を知らない。俺が持っているもの全部を、今から市場に向けて開放します」
「市場全体に」
「はい。オムニ・データの不正データ取引の全記録。十八年前からの時系列。関連する企業名と金額と日付。全部です。一か所の媒体ではなく、複数同時に」
桐島が腕を組んだ。「株式市場への影響は」
「出ます。オムニ・データの親会社の株価が下がります。それが呼び水になって、関連する投資家が動きます。連鎖すれば、エドワードが使っている資金源が一斉に引き上げを始めます」
「リスクは」
「俺の記録の一部が、法的に問題のある形で入手されたと見なされる可能性があります。ただ、帝都物産の件と同様に、当時の入手経緯は正当なものです。三年前、シュレッダーにかける前に読んだだけです」
「それは通るのか」高梨が言った。
「高梨さんに判断してもらいます」
高梨は少し考えた。
「法的に白とは言い切れないが、グレーの範囲内だ。特に、すでに令状が出ている状況で、公共の利益のために開示するとなれば、問題になる可能性は低い」
「わかりました」
夜、蓮はパソコンの前に座った。
ノートの最後の一ページをめくった。
全部が入っていた。
三年前から今日まで。
十八年前の契約書から今朝のサーバーの型番まで。
全部を、デジタルデータに変換し終えていた。
陽菜が隣に座った。
「準備できましたか」
「はい」
「後悔しませんか」
蓮は少し考えた。
「全部を出すことで、俺の記録の『武器』としての価値は下がります。公開されたデータは、誰でも参照できる。俺だけが知っている、という状態ではなくなる」
「それでも」
「それでいいです」蓮は答えた。「記録は、武器のために続けてきたわけじゃない。三年前から、俺はただ覚えていただけです。それが全部、今日ここに集まった。使うべき時に、使います」
陽菜はパソコンの画面を見た。
送信先のリストが並んでいた。
ニュースサイト。法律専門誌。金融情報サービス。海外メディア。
全部で十二か所。
「送信ボタンは私が押してもいいですか」陽菜が言った。
「なぜですか」
「一緒にやりたいです。最初から最後まで、二人でやってきたから」
蓮は少し間を置いた。
「わかりました」
陽菜の手が、マウスに置かれた。
「エドワードさん」蓮は静かに言った。画面に向かって言った。「あなたは予測で人を操った。俺は真実で市場を動かします」
陽菜はマウスに手を置いたまま、蓮を見た。
「カウントダウンは」
「十六日です」
「十六日で終わりますか」
「終わります」
陽菜は画面を向いた。
カーソルが、送信ボタンの上にあった。
【記録:202X年〇月〇日 23:59】
最終フェーズ移行:記録の公共化。
ターゲット:全市場。
送信準備:完了。
カウントダウン:16日。
蓮は陽菜を見た。
「いつでも」
陽菜の指が、わずかに動いた。
第65話 了
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