第64話「見えない王国の崩壊、あるいは最初の踏み込み」
高梨が来たのは、朝の六時だった。
まだ外が暗かった。
「動ける」高梨は言った。コートに外の空気をつけたまま、テーブルに書類を置いた。「昨夜、連絡が取れた。十五年前の彼が、今朝、古い貸しを返してくれた」
「警察庁広報の〇〇さんですか」
「そうだ。彼が内部で動いてくれた。差し止めの書類に不備を見つけてもらった。公式には一時的な処理の遅延という扱いだが」高梨はコートを脱いだ。「その隙に動く。正式な捜査令状が出る前に、別の名目でビルに入れる」
「名目は」陽菜が聞いた。
「消防法に基づく立ち入り調査だ。サーバーが大量に稼働しているビルは、発熱量と電力使用量の関係で、消防署が定期的に点検できる。その形を使う」
「消防署が」
「消防署の担当者に、俺の知人がいる。正規の点検という形で書類を作れる。非常時扱いではないが、立ち入りは合法だ」
陽菜はすでにパソコンを開いていた。
「書類の形式を教えてください。今すぐ作ります」
高梨が書類の要件を話し始めた。
陽菜の指が動いた。
蓮はその様子を見ながら、今日の動線を頭の中で組み立てていた。
午前九時、田辺商事の配送車が事務所の前に来た。
蓮と陽菜は荷物の整理スタッフの格好をして乗り込んだ。
「監視の車は」蓮は田辺に聞いた。
「今朝は二台です。昨日より一台減りました」
「情報が流出したことで、社内対応にリソースを割いていると思われます。監視の優先度が下がった」
「どこまで行きますか」
「〇〇区の〇〇ビルです」
田辺が車を出した。
蓮は窓の外を見た。
記録が走り続けていた。
通り過ぎる車。路地の形。監視カメラの位置。全部が頭に入っていった。
「緊張していますか」陽菜が小声で聞いた。
「記録が走っています」
「それが緊張している時の蓮さんの状態ですね」
「そうかもしれません」
陽菜は前を向いた。
「私も緊張しています」
「どんな感じですか」
「計算が、少し速くなっています。たぶん脳が余計なものを削って、今必要なことだけを処理しようとしているんだと思います」
「俺と同じ状態です」
陽菜は少し笑った。
「やっぱり、似た者同士ですね」
ビルは古かった。
七階建て。外壁が灰色。表に特定の会社名がなかった。
住所だけがある建物だった。
消防署の担当者と高梨が先に入っていた。
蓮と陽菜は荷物搬入の格好で、別のドアから入った。
内部は薄暗かった。
廊下が長かった。
「地下です」蓮は言った。「サーバーの熱量は上に逃げる。でも、排気ダクトの方向が地下から来ています」
「どこで確認したんですか」
「外から見えました。建物の北側に、排気口が低い位置にあります。通常は上に設けるものを、あえて地下から引いています」
陽菜は蓮の後ろについていった。
地下への階段を降りた。
古い扉があった。
「鍵は」陽菜が言った。
「必要ありません」蓮は扉の鍵穴を見た。「三年前の資料に、このビルの旧管理会社が出てきます。当時の設備仕様書に、地下室の鍵の型番がありました。汎用型です」
高梨の連絡係が来た。
マスターキーを持っていた。
扉が開いた。
サーバー室だった。
広かった。
天井が低かった。でも横に広い。
機器が並んでいた。
蓮は入った瞬間に、スキャンを開始した。
【スキャン開始:202X年〇月〇日 09:44】
サーバー、三十二台。
台数を数えた。
次に型番を確認した。
各機器のモデルナンバーが、小さなラベルで貼られていた。
全部を読んだ。
全部を記録した。
配線のパターン。電源の引き回し。冷却システムの構造。
天井についている排熱のダクト。
フロアの電力メーターの数値。
「この熱量は」蓮は言った。「継続的なデータ処理をしているものです。十八年分のデータが、今も稼働し続けている」
陽菜は部屋を見回した。
「これが全部、私たちのデータを含んでいる」
「含んでいます。今もこの部屋で処理されています」
陽菜はサーバーを見た。
何かを言おうとして、止めた。
蓮が記録を続けた。
何も見逃さなかった。
一台ずつ、全部。
【スキャン完了:09:47】
所要時間:三分。
記録内容:サーバー三十二台、型番全件、配線パターン、電力使用量の推定値、稼働年数推定。
証拠としての有効性:高。
「記録できました」蓮は言った。
高梨の連絡係が「撮影します」とカメラを出した。
「俺の記録を、物証で補完してください」
「わかりました」
カメラのシャッター音が、部屋に響いた。
外に出た。
田辺の車が待っていた。
乗り込んだ。
蓮はスマホを取り出した。
エドワードの番号を押した。
三コールで出た。
「篠原くん」エドワードの声は、今日も穏やかだった。「今日は何の用ですか」
「報告があります」
「どうぞ」
「あなたの隠しサーバーを、記録しました」
電話の向こうで、沈黙があった。
「〇〇区の〇〇ビル、地下一階。サーバー三十二台。型番は全件、頭の中に入っています。配線のパターンも、電力使用量の推定値も」
「……それは」
「今朝、合法的な立ち入り調査の名目で確認しました。写真もあります」蓮は続けた。「あなたは自分だけが知っていると思っていた。エドワードさん、あなたの予測にはなかったはずです。俺がここに来ることは」
電話の向こうで、何かの音がした。
椅子の動く音か、何かが動く音だった。
「十年前の覚書は、永瀬会長の手を離れています」蓮は続けた。「それを知らなかったのは、あなただけだった」
沈黙。
長い沈黙だった。
「……どこから」エドワードの声が変わった。穏やかさが、少し削れていた。「どこから、その情報が」
「俺の記憶の中に、全部あります」蓮は答えた。「三年前から」
また沈黙。
「今日の私は」エドワードは言った。「計算が外れました」
「はい」
「ただ」エドワードの声が戻ってきた。「一度の誤算は、敗北ではない」
「知っています」蓮は答えた。「だから続けます。十八日、まだあります」
電話を切った。
【記録:202X年〇月〇日 10:02】
エドワード、動揺確認。声のトーン変化:検知。
サーバー証拠、固定完了。
カウントダウン:18日。
田辺が「どうでしたか」と前から聞いた。
「計画通りです」蓮は答えた。
陽菜は蓮の横顔を見た。
電話中、一度も声が揺れなかった。
「蓮さん」
「はい」
「かっこいいですね」
蓮は少し間を置いた。
「そういう分類は、初めて入りました」
「記録しておいてください」
「しました」
車が走り続けた。
【記録:10:03】
陽菜の発言:「かっこいい」。
分類:新規。
優先度:高め。
第64話 了
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