第69話「最後の十五日、あるいは見送る背中」
法廷は静かだった。
傍聴席に蓮はいた。
陽菜が隣にいた。
被告席に、エドワードがいた。
スーツを着ていた。整えていた。それだけは変わらなかった。
でも、目が違った。
裁判長が罪状を読み上げた。
不正競争防止法違反。個人情報保護法違反。不正アクセス禁止法違反。
エドワードは正面を向いていた。
蓮は傍聴席から、エドワードの後頭部を見ていた。
三ヶ月前、ホテルのロビーで初めて会った時のエドワードを思った。
余裕があった。計算があった。人を数式として扱える男の目があった。
今日は、それがなかった。
「罪状について、認否を述べてください」裁判長が言った。
エドワードは少し間を置いた。
「認めます」
傍聴席が、わずかにざわめいた。
弁護士が何かを言いかけた。
エドワードが手を上げて止めた。
「全て、認めます」
裁判長が続けた。
手続きが進んだ。
エドワードが退廷する前、一度だけ傍聴席を見た。
蓮を見た。
目が合った。
エドワードは微かに頷いた。
何を意味するのか、蓮には判断できなかった。
敗北の認諾か。
同じような眼差しを持つ者への、何かか。
どちらでもよかった。
【記録:202X年〇月〇日 14:22】
エドワード・チェン、罪状認否。全件認諾。
予測モデル、完全停止。
退廷するエドワードの背中を、蓮は最後まで見ていた。
夜、事務所に高梨が来た。
桐島がテーブルに酒を並べた。
「景気づけだ」桐島は言った。「送別会なんて柄じゃないが、黙って見送るのも性に合わん」
高梨は「ありがとう」と言って座った。
陽菜がグラスを配った。
蓮はコーヒーだった。
「今日はそれでいいのか」高梨が言った。
「はい」
「付き合えよ」
「俺の飲める量は少ないです。無理に飲むと、記録の精度が下がります」
高梨は笑った。
桐島も笑った。
陽菜も笑った。
「それはいかん」高梨は言った。「じゃあ俺が飲む」
グラスを飲んだ。
「うまいな」
「腐っても桐島商事の付き合いだ」桐島は自分のグラスも飲んだ。「いいものを知っている」
二人が笑った。
蓮はコーヒーを持って、その様子を見た。
記録した。
でも今夜は、記録より先に感じた。
温かかった。
この感触が何なのか、蓮にはまだ正確な分類がなかった。
「篠原くん」高梨が言った。
「はい」
「今日のエドワードの件、どうだった」
「全件認めました」
「それは聞いた。どう感じたか、を聞いている」
蓮は少し考えた。
「終わった、という感触がありました。エドワードが頷いた時に」
「頷いたのを見たか」
「はい」
「何だと思う、あの頷きは」
蓮は少し間を置いた。
「わかりません。でも、悪い意味ではないような気がしました」
高梨はグラスを置いた。
「俺もそう思う」高梨は言った。「あの男は計算が仕事だった。自分が負けたことを、計算で認めたんじゃないかな」
「感情ではなく、計算で」
「そうだ。計算で生きてきた人間が、計算で負けを認める。それはそれで、誠実なことだと思う」
蓮はそれを聞いた。
記録した。
「高梨さん」蓮は言った。
「なんだ」
「十五年前の事件から、今日まで。全部を話してもらえますか」
高梨が蓮を見た。
「全部、というのは」
「俺が知らない部分を。高梨さんが、一人で追いかけていた十五年の話を」
桐島が「俺も聞いていいか」と言った。
陽菜が「私も」と言った。
高梨は少し間を置いた。
「長くなるぞ」
「いつも通りです」桐島がグラスを満たした。
高梨は話し始めた。
十五年前の話だった。
若い被疑者を守った話。証拠が消えた話。左遷された話。でも続けた話。
蓮はノートを開いた。
新しいノートだった。
「Margin Notes」の社名が入った表紙だった。
高梨の言葉を、書いた。
一字一句ではなく、感じたことを。
これまでと少し違う書き方だった。
数字ではなく、温度で書いた。
高梨が話し続けた。
桐島が時々相槌を打った。
陽菜が静かに聞いた。
蓮は書き続けた。
翌朝、蓮は早く起きた。
一枚の紙を作った。
リストだった。
高梨がこれまでの十五年で、直接または間接的に救ってきた人々の名前と、現在の状況が書いてあった。
証人として守った若者が広報で活躍していること。
その証言が起点になって解決した事件で救われた被害者が、今は別の土地で新しい生活をしていること。
帝都物産の件で動いた高梨の捜査が連鎖して、別の不正が明るみに出たこと。
全部で十八名分あった。
「十五年は無駄ではなかった」ということを、数字で示したものだった。
検察庁の前だった。
朝だった。
高梨が荷物を持っていた。
「見送りに来なくていいと言っただろう」高梨は言った。
「来てしまいました」
「陽菜さんも来ているじゃないか」
「私も来てしまいました」陽菜は言った。
高梨は少し笑った。
「仕方ないな」
蓮は紙を出した。
「これを」
高梨は受け取った。
読み始めた。
一行目。
二行目。
途中で止まった。
少し間があった。
「これは」高梨の声が、少し変わった。
「高梨さんが救ってきた人たちの、その後です」蓮は言った。「高梨さんの十五年は、無駄ではありませんでした。俺の記憶の中に、彼らの笑顔が残っています」
高梨は紙を見たまま、しばらく動かなかった。
朝の風が吹いた。
高梨の白髪が揺れた。
「……篠原くん」高梨は言った。
「はい」
「君は本当に」
「起きたことを覚えているだけです」
高梨は顔を上げた。
目に光るものがあった。
こぼれなかった。
でも確かにあった。
「ありがとう」高梨は言った。「こんなものをもらうとは思わなかった」
「俺にできる唯一のものです」
高梨は紙を丁寧に折って、コートの内側に入れた。
「行ってくる」高梨は言った。
「はい」
「元気でいろよ」
「高梨さんも」
「また連絡する」
「待っています」
高梨が歩いた。
検察庁の入口を入った。
振り返らなかった。
でも、入口のガラスドアを通る瞬間、反射した映像の中で、高梨が少し頷いた気がした。
見えただけかもしれなかった。
でも、記録した。
事務所に戻った。
桐島がコーヒーを淹れていた。
「行ったか」桐島は言った。
「はい」
「お前、泣いたか」
「泣いていません」
「陽菜さんは」
「泣いていません」陽菜は言った。「でも、目が少し」
「そうか」桐島はコーヒーを置いた。「俺も目が乾燥しているな、今日は」
誰も何も言わなかった。
少し経ってから、陽菜が笑った。
蓮もつられた。
桐島も笑った。
ホワイトボードの前に立った。
「12」と書いた。
カウントダウンが、また一つ進んだ。
でも今日の「12」は、昨日の「13」より軽く感じた。
高梨がいた時間が、記録に加わったからかもしれなかった。
【記録:202X年〇月〇日 09:44】
高梨誠一、出発。
感謝のリスト、手渡し完了。
彼の十五年と、俺の三年が、今日、一つの記録になった。
カウントダウン:12日。
窓の外に、朝の光があった。
第69話 了
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