第62話「情報の要塞、あるいは最初の流出」
翌朝、インターネット回線が落ちた。
プロバイダに電話した。
「外部からの信号干渉が確認されています。原因調査中です」
それだけ言われて、切られた。
桐島がモバイルルーターを出した。
それも、速度が極端に落ちていた。
「ここは戦場か」桐島は苦笑した。
「戦場です」蓮は答えた。「デジタルは全部、彼らに掌握されています」
「では」
「アナログで動きます」
蓮はノートを開いた。
万年筆を取った。
「俺の記憶は、光ファイバーを通りません。シナプスで動いています。彼らは光ファイバーは切れても、俺のシナプスは切れない」
蓮は書き始めた。
数字と文字が、ノートに刻まれていった。
速かった。
桐島がその手元を見た。
「お前、その速度で正確なのか」
「記憶から出力しているだけです。速度と精度は関係ありません」
陽菜がスマホを操作していた。
「衛星通信に切り替えます。エドワードが地上の回線を押さえているなら、衛星は別のルートです。速度は落ちますが、使えます」
「準備できますか」
「今夜中に」陽菜は答えた。「設備は桐島さんのルートで手配済みです」
桐島が「いつ頼んだ」と陽菜を見た。
「昨夜、停電の前に」
「先読みしすぎだろ」
「計算です」陽菜は少し笑った。
蓮はノートに向かい続けた。
書きながら、頭の中で照合が走り続けていた。
十八年分のデータ。三年前の記録。高梨が持ってきた断片。
全部を、紙に変換していた。
昼前に、ドアがノックされた。
全員が止まった。
陽菜が立った。
「誰ですか」
「田辺です。田辺商事の田辺です。中村さんから連絡をもらいまして」
蓮は記憶を走らせた。
【照合:田辺商事。帝都物産の下請け企業リスト。搾取を受けていた企業の一社。蓮が三年前の資料から不正を特定し、告発に繋げた案件に含まれる。社長:田辺秀一、五十代】
「入ってください」蓮は言った。
ドアが開いた。
小柄な男性が入ってきた。
大きな紙袋を持っていた。
「差し入れです」田辺は言った。「サンドウィッチと、それからこれ」
紙袋の底に、小さな箱が入っていた。
「最新の暗号化通信デバイスです。うちの息子が、セキュリティ系の会社にいまして。監視されていても、内容が読めないやつです。使い方は箱の中に」
桐島が受け取った。
「なぜ、俺たちがここにいるとわかりましたか」
「中村さんから聞きました。それと」田辺は蓮を見た。「篠原さん、あんたが覚えていてくれたおかげで、うちは潰れずに済んだんだ」
蓮は田辺を見た。
「帝都物産との件ですか」
「そうです。長年、理不尽な単価引き下げと技術の不正転用をされていた。でも証拠がなかった。あんたが三年前に読んだ書類の中に、うちの名前があったと言ってくれた時、信じられなかった」田辺は続けた。「今、うちは正常な価格で取引できています。従業員も守れています。だから、今度は俺たちの番だと思いまして」
蓮は少し間を置いた。
「ありがとうございます」
「礼はいいです。それより」田辺は箱を指した。「これ、五台あります。一人一台、使ってください。外に連絡が必要な時は、それを使えば盗聴はできません」
桐島が箱を開けた。
小さなデバイスが五台、並んでいた。
「田辺さん、外の様子はどうですか」陽菜が聞いた。
「事務所の周りに車が三台いました。中に人がいました。でも俺みたいな配達の格好をした人間は、素通りさせてくれました。プロっぽかったですが、一般人を力で止めるわけにはいかないようです」
「今後も、連絡の中継をお願いできますか」
「もちろんです」田辺は立ち上がった。「他にも篠原さんに助けてもらった会社が、何社かあります。みんな、動く準備はできています」
田辺が出ていった。
事務所が少し、明るくなった気がした。
桐島が「お前は本当に」と蓮を見た。
「三年前の恩返しが、今日来た」
「覚えていたから来てくれました」蓮は答えた。「覚えているということは、消えないということです。悪い記録だけじゃなく、いい記録も」
陽菜はデバイスを一台手に取った。
「次に進みましょう」
夕方、蓮はノートを一冊書き終えた。
次のノートを開いた。
「次の段階に移ります」蓮は陽菜に言った。「今日作った資料の一部を、外に流します」
「公開するんですか」
「全部ではありません。一点だけ」蓮はノートのある部分を指した。「オムニ・データの十二年前のデータ転売の痕跡です。相手先企業の名前と金額だけを、匿名で特定のニュースサイトに投下します」
「なぜ一点だけ」
「全部出せば、彼らは証拠隠滅に動きます。一点だけ出すと、どこまで漏れているかを調査しようとします。その調査の動きが、彼らのリソースを分散させます」
陽菜は少し考えた。
「煙幕ですね。注意を引いて、こちらの作業時間を稼ぐ」
「はい。加えて」蓮は続けた。「投下されたデータが本物だと確認できれば、メディアは続報を追います。彼らは俺たちだけでなく、メディアへの対応にも追われる」
桐島が「なるほど」と言った。「戦線を広げて、向こうの力を薄くする」
「三年前、帝都物産に使ったのと同じやり方です」
陽菜はパソコンを開いた。
衛星通信経由のネット接続だった。
蓮がデータを示した。
陽菜が匿名投稿の準備をした。
「準備できました」陽菜は言った。「いつでも」
蓮は少し考えた。
「今日の株式市場が閉まる三分前に投下します。取引時間外に広がれば、明日の朝一で反応が出ます」
「時間は」
「あと四分です」
四人が、パソコンの画面を見た。
株価チャートが動いていた。
オムニ・データの親会社の株価。
時計が動いた。
三分前。
「陽菜さん」蓮は言った。
「はい」
「エンターキーを押してください」
陽菜は画面を見た。
指をキーボードに置いた。
「押します」
エンターキーが、静かに押された。
データが、外の世界に出た。
五分後、ニュースサイトに投稿が現れた。
十分後、それを引用した別の投稿が出た。
三十分後、ソーシャルメディアのトレンドに関連ワードが入り始めた。
一時間後、オムニ・データの親会社の株価が、時間外取引でわずかに動いた。
マイナス〇・三パーセント。
小さな数字だった。
でも動いた。
【記録:202X年〇月〇日 17:22】
第一段階、完了。情報投下。反応確認。
炎上:微弱だが確認。
予測モデルへの影響:調査中。
「最初の一手が通りました」蓮は言った。
桐島がコーヒーを持ってきた。
「よくやった」
陽菜は画面を見た。
「彼らは今、どう動いていると思いますか」
「調査と対応で、社内が動いています」蓮は答えた。「誰がリークしたか、どこまで知っているか、次に何を出してくるか。三つを同時に調べようとしている」
「分散できましたか」
「しばらくは。ただ」蓮は続けた。「エドワードはすぐに気づきます。これが本命ではないと」
「どのくらいで」
「明日の朝には」
「じゃあ今夜」陽菜は立ち上がった。「使える時間がある」
「はい」
「続けましょう」
蓮はノートを開いた。
万年筆を取った。
残り二十日と数時間。
まだ書くことがあった。
その頃、都内のオフィスビルで。
エドワードはタブレットを見ていた。
流出した情報の内容を確認していた。
「……本物だ」
隣の部下が言った。
「どこまで持っている」
「わかりません。ただ」
「ただ」
「これは、最小単位の情報です。もっと大きなものが手元にある可能性があります」
エドワードはタブレットを置いた。
テーブルの上に、静かに置いた。
画面が暗くなった。
部下が「指示を」と言った。
エドワードは少し間を置いた。
「予測モデルを更新しなさい」エドワードは言った。「あの男は、今日アナログで動いた。デジタルを捨てた。その上でこのリークを出した」
「対応は」
「全部、想定外だ」エドワードは窓の外を向いた。「あの男の行動を、俺たちのモデルは予測できていない」
「ならば」
「力を使います」エドワードは言った。「データで勝てないなら、次の手は別にある」
タブレットの画面が消えたまま、テーブルに置かれていた。
オムニ・データの株価チャートが、わずかに傾いていた。
第62話 了
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