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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第四章「記録の向こう側」

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第60話「優先順位の再定義、あるいは世界への宣戦布告」

翌朝、陽菜は一人で会長室に入った。

義隆が席に座っていた。

昨夜より顔が老けて見えた。

一晩で、何かが削れていた。

「決めました」義隆は言った。振り返らずに、窓の外を向いたまま言った。「篠原くんとの正式な業務提携を、一時的に停止します。オムニ・データの要求に、今回は従います」

陽菜は聞いた。

「会社の存続を優先する。三百人の雇用を守る。それが経営者の判断です」義隆は続けた。「陽菜、これは個人の話ではない」

「わかっています」

「わかっているなら」

「でも、私は従いません」

義隆が振り返った。

陽菜はバッジを手に持っていた。

社員証も。

テーブルの上に、置いた。

「辞表を出します」陽菜は言った。「瀬川商事の社員として、あるいは会長の娘として、従えない判断をお父様がされるなら、私はその立場を降ります」

義隆は動かなかった。

「会社より、一人の人間を選ぶというのか」

「会社より大切なものがある、と初めて気づきました」陽菜は続けた。「十二歳の時から、ずっと計算してきました。瀬川家の娘として、有能であることが私の存在理由だと思っていました。でも、それは私が決めたことじゃなかった。決めさせられていただけです」

「陽菜」

「お父様」陽菜は義隆を見た。「計算の外にある自由を選びます。これが、私の最後の仕事です」

義隆は長い間、陽菜を見た。

テーブルの上のバッジを見た。

「……後悔するぞ」

「後悔するかもしれません」陽菜は答えた。「でも、記録に残るのは、その後悔ではなく、今日私が何を選んだかです」

蓮から聞いた言葉だった。

義隆は少し目を閉じた。

「一週間、待ちなさい」義隆は言った。「辞表は受け取らない。一週間、私に考えさせなさい」

陽菜は少し間を置いた。

「わかりました」

バッジは置いたままにした。

会長室を出た。

オフィスで、蓮は待っていた。

陽菜が入ってきた。

「辞表を出しました」陽菜は言った。「受理されなかったけれど」

「義隆会長の反応は」

「一週間待てと言われました」

蓮は頷いた。

「十分です」

「十分?」

「三週間、高梨さんに時間を借りました。そのうち最初の一週間で、全部終わらせます」蓮は立ち上がった。「エドワードに連絡します」

待ち合わせは、今度は蓮が指定した。

高梨の事務所の近くにある、何の変哲もない喫茶店だった。

エドワードが来た。

今日は余裕があった。

「おめでとうございます」エドワードは席に着いた。「瀬川商事のバッジを置いてきたと聞きました。予測通りです」

「何が予測通りでしたか」

「陽菜さんが感情で動いたことが、です」エドワードはコーヒーを頼んだ。「計算の人間が感情で動けば、組織の論理には勝てない。これで、あなたたちの活動基盤は大幅に縮小します」

「一つ確認させてください」蓮は言った。

「どうぞ」

「十八年前の契約書の話です」

エドワードの目が、少し動いた。

「瀬川商事との管理委託契約。当時の契約書には、データの利用範囲が明記されていました。でも、その範囲には期限がありました。委託契約終了から三年以内に全データを削除する、という条項が入っていました」

エドワードは黙っていた。

「契約終了は十五年前です。つまり、十二年前にデータは削除されているべきでした」蓮は続けた。「でも、あなたたちは削除しなかった。昨日の予測の精度が、それを証明しています」

「証拠はありますか」

「当時の契約書の文面を、俺は記憶しています」蓮は答えた。「十八年前の古い書類です。でも、三年前の帝都物産のシュレッダー資料の中に、その契約の概要が参照文として入っていました。一字一句、覚えています」

エドワードのコーヒーが来た。

手をつけなかった。

「その記憶と、瀬川商事が保管していた契約書の原本を照合すれば」蓮は続けた。「データの不正保持が立証できます。個人情報保護法違反。場合によっては、不正競争防止法の適用も可能です」

「脅しですか」

「事実の確認です」蓮は答えた。「高梨検事に、今朝、概要を伝えました。異動前の三週間で、令状の準備が始まります」

エドワードは少し間を置いた。

「……高梨の異動を動かしたのは、法的手続きを遅らせるためでした」エドワードは静かに言った。「三週間では足りないと計算していた」

「俺の記憶があれば、三週間で十分です」

エドワードはコーヒーカップを手に取った。

「篠原くん」エドワードは言った。「あなたは本当に、帝都物産の時と同じことをするつもりですか。組織に対して、一人の記憶で」

「一人ではありません」

「瀬川陽菜さんがいても、今は組織の後ろ盾がない。リスクが違います」

「俺の記録の優先順位を、伝えます」蓮は言った。

エドワードが蓮を見た。

「第一位は、今俺の隣にいる人間の安全です」蓮は続けた。「それを守るために、俺の全記憶を、あなたたちを壊すために使います」

「全記憶、というのは」

「三年前の帝都物産の資料だけではありません。この三年間で俺が記録した全てのデータです。あなたたちの動き、接触の記録、発言の内容、監視のパターン。全部、一秒も欠けずに残っています」

エドワードは蓮を見た。

「あなたたちが陽菜さんを計算の外に出そうとした瞬間から、俺はあなたたちを記録し始めていました。今日この席での会話も、記録されています」

エドワードのコーヒーが、冷えていた。

「証拠を持った人間を、力で黙らせようとするのは」蓮は続けた。「帝都物産と同じやり方です。結果も同じになります」

エドワードは長い間、蓮を見た。

何かを計算している目だった。

でも計算が、収束しなかった。

「……今日のところは退きます」エドワードは立ち上がった。「ただ、これで終わりだとは思わないでください」

「思っていません」

「次は」

「次も、俺は記録します」蓮は答えた。「あなたたちが何をしても、全部記録します。それが俺の唯一の武器です。三年前から、ずっとそうでした」

エドワードは蓮を最後に見た。

それから、陽菜を見た。

何も言わなかった。

喫茶店を出た。

二人は喫茶店に残った。

陽菜がコーヒーを飲んだ。

「終わりましたか」

「一時的に退きました」蓮は答えた。「終わってはいません。でも、高梨さんの三週間で、法的な証拠を固めます。その後は、彼らが動きにくくなります」

「本当に三週間で終わりますか」

「高梨さんと俺の記憶があれば、終わります」

陽菜はカップを置いた。

「蓮さん」

「はい」

「私、今日で瀬川商事の陽菜じゃなくなりました。正式にではないけれど、気持ちの上では」

「はい」

「怖いです、少し」

「少し、ですか」

「少し、です」陽菜は笑った。「全部じゃないのは、あなたがいるからです」

蓮は陽菜を見た。

「陽菜さんが今日選んだことを、記録しました」

「何と分類しましたか」

「勇気」蓮は答えた。「俺の記録の中で、最も古い『勇気』の記録は、三年前の解雇通知書を受け取って、それでも全部覚えていた自分です。今日の陽菜さんの勇気は、それと同じ分類に入っています」

陽菜は少し目を細めた。

「それは、最高の褒め言葉です」

「そのつもりでした」

夜、事務所に戻った。

桐島が「どうだった」と聞いた。

「一時的に退きました」陽菜が答えた。「三週間、作業があります」

「俺にできることはあるか」

「あります」蓮は言った。「高梨さんと連携する書類仕事が多くなります。桐島さんの名義が必要になる場面があります」

「わかった、全部やる」桐島は席を立った。「今夜は帰れ。明日から動け」

「ありがとうございます」

桐島が出ていった。

事務所に二人だけが残った。

蓮はデスクに向かった。

ノートを開いた。

昨夜、片隅に書いた一行があった。

『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』

その下に、今日の日付を書いた。

そしてもう一行。

『優先順位、第一位:陽菜の笑顔の維持。処理継続:永久に』

書いた。

ノートを閉じた。

音がした。

静かな、紙の音だった。

【記録:202X年〇月〇日 22:44】

第四章、完結。

全記録の整理完了。

最優先事項:更新済み。

次の記録が始まる。

最終章。

高梨が去る前に、最後の仕掛けを施す。

それが終われば、本当の意味で、新しい記録が始まる。

「蓮さん」陽菜が言った。

「はい」

「第五章、始まりますね」

「はい」

「怖いですか」

蓮は少し考えた。

「記録が走っている間は」

「そうじゃない時は」陽菜が遮った。

蓮は陽菜を見た。

「楽しみです」

陽菜は少し目を見開いた。

「初めて聞きました、その言葉」

「俺も初めて言いました」

陽菜は笑った。

今夜一番の笑顔だった。

その笑顔を、蓮は記録した。

最優先として。

永久処理継続として。


第60話 了


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