第60話「優先順位の再定義、あるいは世界への宣戦布告」
翌朝、陽菜は一人で会長室に入った。
義隆が席に座っていた。
昨夜より顔が老けて見えた。
一晩で、何かが削れていた。
「決めました」義隆は言った。振り返らずに、窓の外を向いたまま言った。「篠原くんとの正式な業務提携を、一時的に停止します。オムニ・データの要求に、今回は従います」
陽菜は聞いた。
「会社の存続を優先する。三百人の雇用を守る。それが経営者の判断です」義隆は続けた。「陽菜、これは個人の話ではない」
「わかっています」
「わかっているなら」
「でも、私は従いません」
義隆が振り返った。
陽菜はバッジを手に持っていた。
社員証も。
テーブルの上に、置いた。
「辞表を出します」陽菜は言った。「瀬川商事の社員として、あるいは会長の娘として、従えない判断をお父様がされるなら、私はその立場を降ります」
義隆は動かなかった。
「会社より、一人の人間を選ぶというのか」
「会社より大切なものがある、と初めて気づきました」陽菜は続けた。「十二歳の時から、ずっと計算してきました。瀬川家の娘として、有能であることが私の存在理由だと思っていました。でも、それは私が決めたことじゃなかった。決めさせられていただけです」
「陽菜」
「お父様」陽菜は義隆を見た。「計算の外にある自由を選びます。これが、私の最後の仕事です」
義隆は長い間、陽菜を見た。
テーブルの上のバッジを見た。
「……後悔するぞ」
「後悔するかもしれません」陽菜は答えた。「でも、記録に残るのは、その後悔ではなく、今日私が何を選んだかです」
蓮から聞いた言葉だった。
義隆は少し目を閉じた。
「一週間、待ちなさい」義隆は言った。「辞表は受け取らない。一週間、私に考えさせなさい」
陽菜は少し間を置いた。
「わかりました」
バッジは置いたままにした。
会長室を出た。
オフィスで、蓮は待っていた。
陽菜が入ってきた。
「辞表を出しました」陽菜は言った。「受理されなかったけれど」
「義隆会長の反応は」
「一週間待てと言われました」
蓮は頷いた。
「十分です」
「十分?」
「三週間、高梨さんに時間を借りました。そのうち最初の一週間で、全部終わらせます」蓮は立ち上がった。「エドワードに連絡します」
待ち合わせは、今度は蓮が指定した。
高梨の事務所の近くにある、何の変哲もない喫茶店だった。
エドワードが来た。
今日は余裕があった。
「おめでとうございます」エドワードは席に着いた。「瀬川商事のバッジを置いてきたと聞きました。予測通りです」
「何が予測通りでしたか」
「陽菜さんが感情で動いたことが、です」エドワードはコーヒーを頼んだ。「計算の人間が感情で動けば、組織の論理には勝てない。これで、あなたたちの活動基盤は大幅に縮小します」
「一つ確認させてください」蓮は言った。
「どうぞ」
「十八年前の契約書の話です」
エドワードの目が、少し動いた。
「瀬川商事との管理委託契約。当時の契約書には、データの利用範囲が明記されていました。でも、その範囲には期限がありました。委託契約終了から三年以内に全データを削除する、という条項が入っていました」
エドワードは黙っていた。
「契約終了は十五年前です。つまり、十二年前にデータは削除されているべきでした」蓮は続けた。「でも、あなたたちは削除しなかった。昨日の予測の精度が、それを証明しています」
「証拠はありますか」
「当時の契約書の文面を、俺は記憶しています」蓮は答えた。「十八年前の古い書類です。でも、三年前の帝都物産のシュレッダー資料の中に、その契約の概要が参照文として入っていました。一字一句、覚えています」
エドワードのコーヒーが来た。
手をつけなかった。
「その記憶と、瀬川商事が保管していた契約書の原本を照合すれば」蓮は続けた。「データの不正保持が立証できます。個人情報保護法違反。場合によっては、不正競争防止法の適用も可能です」
「脅しですか」
「事実の確認です」蓮は答えた。「高梨検事に、今朝、概要を伝えました。異動前の三週間で、令状の準備が始まります」
エドワードは少し間を置いた。
「……高梨の異動を動かしたのは、法的手続きを遅らせるためでした」エドワードは静かに言った。「三週間では足りないと計算していた」
「俺の記憶があれば、三週間で十分です」
エドワードはコーヒーカップを手に取った。
「篠原くん」エドワードは言った。「あなたは本当に、帝都物産の時と同じことをするつもりですか。組織に対して、一人の記憶で」
「一人ではありません」
「瀬川陽菜さんがいても、今は組織の後ろ盾がない。リスクが違います」
「俺の記録の優先順位を、伝えます」蓮は言った。
エドワードが蓮を見た。
「第一位は、今俺の隣にいる人間の安全です」蓮は続けた。「それを守るために、俺の全記憶を、あなたたちを壊すために使います」
「全記憶、というのは」
「三年前の帝都物産の資料だけではありません。この三年間で俺が記録した全てのデータです。あなたたちの動き、接触の記録、発言の内容、監視のパターン。全部、一秒も欠けずに残っています」
エドワードは蓮を見た。
「あなたたちが陽菜さんを計算の外に出そうとした瞬間から、俺はあなたたちを記録し始めていました。今日この席での会話も、記録されています」
エドワードのコーヒーが、冷えていた。
「証拠を持った人間を、力で黙らせようとするのは」蓮は続けた。「帝都物産と同じやり方です。結果も同じになります」
エドワードは長い間、蓮を見た。
何かを計算している目だった。
でも計算が、収束しなかった。
「……今日のところは退きます」エドワードは立ち上がった。「ただ、これで終わりだとは思わないでください」
「思っていません」
「次は」
「次も、俺は記録します」蓮は答えた。「あなたたちが何をしても、全部記録します。それが俺の唯一の武器です。三年前から、ずっとそうでした」
エドワードは蓮を最後に見た。
それから、陽菜を見た。
何も言わなかった。
喫茶店を出た。
二人は喫茶店に残った。
陽菜がコーヒーを飲んだ。
「終わりましたか」
「一時的に退きました」蓮は答えた。「終わってはいません。でも、高梨さんの三週間で、法的な証拠を固めます。その後は、彼らが動きにくくなります」
「本当に三週間で終わりますか」
「高梨さんと俺の記憶があれば、終わります」
陽菜はカップを置いた。
「蓮さん」
「はい」
「私、今日で瀬川商事の陽菜じゃなくなりました。正式にではないけれど、気持ちの上では」
「はい」
「怖いです、少し」
「少し、ですか」
「少し、です」陽菜は笑った。「全部じゃないのは、あなたがいるからです」
蓮は陽菜を見た。
「陽菜さんが今日選んだことを、記録しました」
「何と分類しましたか」
「勇気」蓮は答えた。「俺の記録の中で、最も古い『勇気』の記録は、三年前の解雇通知書を受け取って、それでも全部覚えていた自分です。今日の陽菜さんの勇気は、それと同じ分類に入っています」
陽菜は少し目を細めた。
「それは、最高の褒め言葉です」
「そのつもりでした」
夜、事務所に戻った。
桐島が「どうだった」と聞いた。
「一時的に退きました」陽菜が答えた。「三週間、作業があります」
「俺にできることはあるか」
「あります」蓮は言った。「高梨さんと連携する書類仕事が多くなります。桐島さんの名義が必要になる場面があります」
「わかった、全部やる」桐島は席を立った。「今夜は帰れ。明日から動け」
「ありがとうございます」
桐島が出ていった。
事務所に二人だけが残った。
蓮はデスクに向かった。
ノートを開いた。
昨夜、片隅に書いた一行があった。
『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』
その下に、今日の日付を書いた。
そしてもう一行。
『優先順位、第一位:陽菜の笑顔の維持。処理継続:永久に』
書いた。
ノートを閉じた。
音がした。
静かな、紙の音だった。
【記録:202X年〇月〇日 22:44】
第四章、完結。
全記録の整理完了。
最優先事項:更新済み。
次の記録が始まる。
最終章。
高梨が去る前に、最後の仕掛けを施す。
それが終われば、本当の意味で、新しい記録が始まる。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「第五章、始まりますね」
「はい」
「怖いですか」
蓮は少し考えた。
「記録が走っている間は」
「そうじゃない時は」陽菜が遮った。
蓮は陽菜を見た。
「楽しみです」
陽菜は少し目を見開いた。
「初めて聞きました、その言葉」
「俺も初めて言いました」
陽菜は笑った。
今夜一番の笑顔だった。
その笑顔を、蓮は記録した。
最優先として。
永久処理継続として。
第60話 了
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