第59話「処理保留の解消、あるいは最初の約束」
高梨に電話したのは、廃校からの帰り道だった。
三コールで出た。
「篠原くん、聞きましたか」高梨の声は、いつもと変わらなかった。
「異動の件、確認したかったです」
「本当です」高梨は言った。「三週間後、地方の地検に異動になります。辞令が昨日出ました」
「エドワードが動かした可能性がありますか」
「ゼロではありません。ただ」高梨は少し間を置いた。「証明は難しい。人事というのは、外から見えにくい場所で動きます」
蓮は歩きながら聞いた。
「申し訳ありません」蓮は言った。
「何が」
「俺の件に関わったことで、高梨さんに不利益が生じたなら」
「篠原くん」高梨の声が変わった。「勘違いしないでください。私はあなたのために動いたんじゃない。十五年前からやりかけていた仕事を、あなたが完成させてくれた。それだけです」
「それでも」
「それに」高梨は続けた。「地方が悪いとは思っていません。東京だけが戦場じゃない」
蓮は少し間を置いた。
「君はもう十分すぎるほど戦った」高梨は静かに言った。「これからは自分の人生を歩みなさい。記録する相手を、過去の敵じゃなく、隣にいる人間にしなさい」
電話が切れた。
蓮はスマホを持ったまま、歩き続けた。
高梨という「権威の傘」がなくなる。
俺は、記録を持った一人の男に戻る。
ただの、一人の男に。
【記録:202X年〇月〇日 11:22】
高梨誠一、三週間後に異動確定。
そこで記録が止まった。
分類できなかった。
「怖いですか」
陽菜が隣にいた。
「高梨さんがいなくなることが」
「怖い」蓮は繰り返した。「という感情が来る前に、別の感情が来ています」
「何ですか」
「自由への責任です」
陽菜は蓮を見た。
「誰かに守ってもらっていた間は、守られている範囲で動けばよかった。でも今日から、それがなくなります」蓮は続けた。「どこへでも行けます。何をしてもいい。そのかわり、全部自分で決めなければならない」
「それは」陽菜は言った。「あなたが三年前から、ずっとやってきたことでしょう」
蓮は少し考えた。
「そうかもしれません」
「一人でやってきたことを、今度は一人じゃなくやるだけです」
蓮は陽菜を見た。
「そうですね」
「そうです」陽菜は前を向いた。「でも、私も今日、一つ戦わないといけないことがあります」
瀬川商事の会長室は、静かだった。
陽菜が入った。
義隆が窓の外を向いていた。
「エドワードから連絡が来た」義隆は振り返らずに言った。「篠原蓮を、瀬川商事との正式な関係から外すよう求めてきた。従わなければ、メインバンクへの働きかけで、来期の融資に影響が出ると」
陽菜は立ったまま聞いた。
「どうするつもりですか」義隆が振り返った。「陽菜、これは会社の話だ。個人の感情で判断できる規模ではない」
「わかっています」
「融資が止まれば、来期の設備投資が全てキャンセルになる。三百人の雇用に影響が出る可能性がある」
「わかっています」陽菜は答えた。「それは、会長が私に向かって言っている脅しではなく、エドワードが会長を通じて私に言わせている脅しです」
義隆は少し目を細めた。
「同じことだ」
「違います」陽菜は言った。「お父様が自分の意志でそう思っているなら、私は従います。でも、他人の計算に乗せられているなら、私には従う理由がありません」
義隆は沈黙した。
「お父様」陽菜は続けた。「私はずっと計算で自分を守ってきました。計算が正しければ傷つかないと思っていた。でも、計算通りに生きることが正しいとは限らない、と今は思っています」
「感情論だ」
「はい」陽菜は答えた。「でも、感情のない計算は、いつかどこかで間違えます。帝都物産がそうだったように」
義隆はしばらく陽菜を見た。
「……お前は変わったな」
「変わりました」
「誰かに変えられたのか」
陽菜は少し間を置いた。
「壊してもらいました。私の計算を」
義隆は窓の外を向いた。
「時間をくれ」義隆は言った。「一日だけ」
「わかりました」
陽菜は会長室を出た。
廊下を歩いた。
震えていなかった。
夜、オフィスに二人だけが残った。
桐島は「お前たちの時間にしろ」と言って帰った。
蓮はデスクに座っていた。
陽菜が向かいに座った。
「会長は一日待ってもらいました」陽菜は言った。「明日、答えが出ます」
「どちらになると思いますか」
「わかりません」陽菜は手を組んだ。「計算できません。お父様のことは、いつも計算できなかった。母と似ているから」
蓮は陽菜を見た。
「陽菜さん」
「なんですか」
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「もし、全てを失っても」蓮は言った。「陽菜さんの隣にいていいですか」
陽菜が止まった。
「……逆ではないですか」
「逆?」
「私がそれを聞こうとしていました」陽菜は言った。「もし私がすべてを失っても、私の隣にいてくれますか、と」
蓮は少し間を置いた。
「同じことを聞こうとしていたんですね」
「そうみたいです」
二人は少し、沈黙した。
「陽菜さん」蓮が言った。
「はい」
「三年間、一つのフォルダが整理できていませんでした」
「どんなフォルダですか」
「陽菜さんに関する記録の分類です。最初は芸術品。それから運命共同体。それから同志。でも全部、正確ではなかった」蓮は続けた。「分類不能として、ずっと保留にしていました」
陽菜は蓮を見た。
「今日、整理できました」
「何に分類しましたか」
蓮は少し間を置いた。
「陽菜さんの記録は、俺の未来の記録と同じフォルダに入っています」
「未来のフォルダ」
「はい」蓮は続けた。「陽菜さんが何かを失っても、俺が何かを失っても、そのフォルダの中身は変わりません。俺の記録の中に、あなた以外の未来が存在しないことが確定しました」
陽菜は蓮を見た。
長い間、見ていた。
「……それは」陽菜は静かに言った。「とても蓮さんらしい告白ですね」
「告白に聞こえましたか」
「聞こえました」
「正確に伝わりましたか」
「正確に」陽菜は言った。「一文字も欠けずに」
蓮は少し間を置いた。
「陽菜さんの答えは」
陽菜はデスクの上に手を置いた。
蓮の手の近くに。
触れなかった。でも、近かった。
「私の計算に、あなたは入りません」陽菜は言った。「でも、私の未来には入っています。最初から、ずっと」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
【記録:202X年〇月〇日 22:19】
瀬川陽菜、答えを出した。
分類:未来。
処理保留、解消。
三年分の保留が、一つの分類に収まった。
窓の外に、夜の街があった。
蓮はノートを開いた。
桐島にもらった万年筆を取った。
昨日の廃校で見た景色を思った。
雑草が風に揺れていた。
向日葵から始まった連想で、あの場所に辿り着いた。
向日葵。
花の名前だ。
記録した覚えがある。
調べたのはいつだったか。
小学校の理科の授業。向日葵は太陽を追って首を動かすという話を聞いた時。
花言葉も、その時に読んだ。
ノートの片隅に、小さく書いた。
『向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる』
書いた。
インクが乾いた。
陽菜がコーヒーを持ってきた。
蓮のノートは見なかった。
見せなかった。
でも、書いた。
書いたことが、記録になった。
【記録:202X年〇月〇日 22:31】
向日葵の花言葉、ノートに記録。
理由:なし。
ただ、書きたかった。
理由のない記録が、今の蓮には一番しっくりきた。
第59話 了
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