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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第四章「記録の向こう側」

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第58話「確率の檻を破る者、あるいは純粋なる選択」

朝のオフィスだった。

桐島はまだ来ていなかった。

蓮と陽菜だけがいた。

「準備はいいですか」蓮は言った。

「はい」陽菜はコートを着た。「今日の目的地、本当にまだ決まっていないんですか」

「今から決めます」

「どうやって」

「陽菜さんに聞きます」蓮は言った。「今から俺が言う単語から、一番遠い場所を連想してください。考えすぎないでください。最初に浮かんだものを言ってください」

「わかりました」

「準備はいいですか」

「はい」

「海」

陽菜は一秒考えた。

「向日葵」

「向日葵から、一番遠いもの」

「夜」

「夜から、一番遠いもの」

「子供の声」

「子供の声がする場所で、今は使われていない場所」

陽菜は少し考えた。

「廃校……かな」

「この近辺で、廃校になった学校がどこかにあります」蓮は記憶を走らせた。「三年前の資料の中に、都内の統廃合リストがありました。〇〇区の〇〇小学校。三年前に閉校しています」

「そこへ行くんですか」

「はい。エドワードに連絡します」

蓮はスマホを取り出した。

「〇〇区の〇〇小学校跡。十時に」

それだけ送った。

既読がついた。

返信はなかった。

移動を始めた。

電車に乗った。

「これが偽装ですか」陽菜が言った。

「まだです。今は本物の移動です」蓮は答えた。「偽装は途中で混ぜます。彼らが予測しそうな行動を、いくつか意図的に入れる」

「具体的には」

「いつものカフェに一度寄ります。その後、いつもなら乗り換えない駅で乗り換える。コンビニで陽菜さんが好む種類の菓子を買う。全部、彼らが予測できるパターンです」

陽菜は少し笑った。

「予測できる行動をわざとやって、ノイズを混ぜる」

「彼らのアルゴリズムは、正解データを積み上げることで精度を上げます。意図的に正解のデータを流し込むと、その後に来る予測外の行動との落差が大きくなります。モデルが混乱します」

「あなたがやっていたことの逆ですね」蓮は答えた。

「俺が三年前にやっていたのは、真実の記録です。今日やるのは、真実を使ったノイズです」

陽菜は窓の外を見た。

「楽しんでいますか、これ」

「はい」蓮は少し間を置いた。「初めて、記録を武器として使っていない気がします」

「ゲームとして使っている」

「陽菜さんと一緒にやっているから、そう感じます」

陽菜は前を向いた。

「計算を捨てるって」陽菜は言った。「こんなに身軽なんですね」

いつものカフェに寄った。

コーヒーを一杯飲んだ。

蓮の脳内で、何かが変わった。

【記録:監視の視線、検知。ただし困惑のパターンあり。いつものカフェに寄ったことで、予測モデルが「通常の行動パターン継続」と判断した可能性が高い。精度、過信モードに入っていると推定】

コンビニで陽菜が菓子を買った。

いつもの種類だった。

監視が、リラックスした。

蓮はそれを感じた。

感じた、というのは記録ではなかった。

空気の変化だった。

「今です」蓮は言った。

「え?」

「乗り換えます。ここで」

陽菜は地図も確認せず、蓮についていった。

乗り換え駅ではない駅で降りた。

別の路線に乗った。

【記録:監視の視線、混乱。再構築の処理が走っていると推定。予測精度、低下中】

乗り換えた先で、また方向を変えた。

「楽しい」陽菜が言った。

「追いかけてきていますか」蓮は言った。

「さっきから、三十メートル後ろに同じコートの人がいます」

「俺も見ています」

「どうしますか」

「このまま目的地に向かいます。向こうは来ても意味がありません」

「なぜ」

「俺たちがエドワードに話すことは、盗聴しても無意味なものだからです」

陽菜は少し考えた。

「数値化できないものだから」

「はい」

廃校になった小学校の跡地は、静かだった。

校舎はまだ残っていた。でも窓が板で塞がれていた。

校庭だった場所に、雑草が生えていた。

朝の光が、斜めに差していた。

エドワードが来た。

今日は一人だった。

スーツが昨日より乱れていた。わずかだったが、蓮には見えた。

「予測が外れましたか」蓮は言った。

「……向日葵から廃校に飛ぶとは」エドワードは言った。「連想の初期値がランダムすぎる」

「陽菜さんが選んだものです」

エドワードは陽菜を見た。

「瀬川陽菜さん、あなたのデータは十八年分あります。向日葵という連想は、あなたの傾向からは出てこないはずだった」

「そうですか」陽菜は言った。「私も昨日まで、自分が向日葵と答えるとは思っていませんでした」

エドワードは少し間を置いた。

「……今朝の時点でのあなたの予測行動との一致率は、四十パーセントを切っていました」蓮は言った。「通常の人間の行動予測なら、七十パーセントを下回れば実用的ではない。俺たちは今日、あなたのモデルを半分以上無効化しました」

「それは今日だけのことです」エドワードは言った。「データが積み上がれば、ランダム性も含めてモデルに組み込まれる」

「そうです」蓮は答えた。「でも、一つだけ、あなたのモデルに永遠に入らないものがあります」

「何ですか」

「昨日の屋台の味です」

エドワードが止まった。

「俺と陽菜さんが、昨日の夕方、知らない商店街の屋台で食べたものがあります。計画していなかった。陽菜さんが雲の向きで乗ったバスの終点で降りて、たまたま見つけた屋台でした。その味が、俺の記録に入っています」

「それは」

「その味の記憶が、今日の俺の行動を一パーセントだけ変えています。昨日の俺と、今日の俺は、厳密に同一ではありません。あなたのデータが把握しているのは、昨日以前の俺です」

エドワードは蓮を見た。

「毎日、そういう要素が積み上がっていきます」蓮は続けた。「俺の記録は、俺だけが持っています。あなたは外から観測できますが、俺の記録そのものを持つことはできません。だから、あなたの予測は常に一歩遅れます」

「それでも」エドワードは言った。「確率的には」

「確率は、起きなかった未来の話です」蓮は答えた。「俺は起きたことしか記録しません。あなたは未来を予測しようとする。俺は現在を記録する。その差は、縮まりません」

エドワードは少し間を置いた。

「あなたは俺に」エドワードは続けた。「完成品になれと言いました。でも、記録に完成はありません。生きている限り、未完成のログが増え続けるだけです。昨日の屋台の味も、陽菜さんが向日葵と答えた瞬間も、全部が未完成の記録です。それが俺の強さです」

校庭の雑草が、風に揺れた。

エドワードは蓮を見た。

陽菜を見た。

「……面白い」エドワードは静かに言った。「確かに、今日の私は負けました」

「はい」

「しかし」エドワードは続けた。「次は別の話になります」エドワードはコートの内側に手を入れた。「データと論理の話ではなく」

取り出したものは、書類だった。

「力の話です」

「力」

「篠原くん、あなたの記憶は法廷で証拠になりました。それは、あなたが国家の捜査に関与できる立場にあることを意味します」エドワードは書類をしまった。「我々は次の段階として、あなたの証言能力そのものを、法的に制限する準備があります。あなたを守ってくれていた高梨検事は、今回の帝都物産の案件で他の地域に異動になります。三週間後に」

蓮は動かなかった。

「我々は国家レベルの関与があります。論理では勝てても、力では別の話です」

エドワードは背を向けた。

「三週間、考えてください。我々のシステムに参加すれば、あなたの記録は守られます。拒否すれば、別の計算が始まります」

男が歩いていった。

廃校の門を出て、消えた。

校庭に、二人だけが残った。

風が吹いた。

雑草が揺れた。

「高梨さんの異動」陽菜が言った。「本当ですか」

「確認します」蓮はスマホを取り出した。「でも」

「でも」

「仮に本当でも」蓮はスマホを持ったまま言った。「俺の記録は、俺の中にあります。誰かに守ってもらう必要はありません」

陽菜は蓮を見た。

「一人で戦うということですか」

「一人ではありません」蓮は陽菜を見た。「陽菜さんが昨日、向日葵と答えたから、今日ここにいます。それが俺の記録です」

陽菜は少し笑った。

「頼りにしていいんですか」

「互いに、頼ってください」

陽菜は廃校の校舎を見た。

古い建物だった。

でも、今日ここに来たことは、永遠に蓮の記録に残る。

「次の手を考えましょう」陽菜は言った。

「はい」

「三週間あります」

「十分です」

二人は校庭を歩き始めた。

出口に向かって。

前に向かって。

【記録:202X年〇月〇日 10:44】

オムニ・データ、力の行使を予告。高梨異動情報、要確認。

対応方針:継続。

武器:記録。陽菜との協働。向日葵と廃校の記憶。

この記録は、誰にも奪えない。


第58話 了


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