第57話「不可視の境界線、あるいは沈黙の反撃」
オフィスに戻った。
コートを脱いだ。
椅子に座った。
蓮は目を閉じた。
今日、オムニ・データが仕掛けてきたもの。
コーヒー豆の件。信号の件。サイネージの件。スマホの通知。
全部を、もう一度並べた。
【照合開始:オムニ・データの予測精度の根拠を逆算】
エチオピア産の豆。陽菜が今日買おうとしていた菓子。蓮の歩行速度に合わせた信号の切り替え。
これだけの精度で予測するためには、どれだけのデータが必要か。
購入履歴だけでは足りない。
行動パターンだけでも足りない。
もっと長期間の、もっと細かいデータが必要だ。
幼少期から積み上げてきた生活習慣。家族の嗜好。育った環境の中で形成された行動の癖。
蓮は少し考えた。
陽菜が幼少期から通っていた場所。瀬川家が使っていたサービス。
記憶を走らせた。
陽菜との会話の中で出てきた場所の名前。陽菜が自然に選ぶ物の傾向。
そこに、共通のパターンがあった。
全部が、瀬川家という「組織」の行動様式に根ざしていた。
「陽菜さん」蓮は言った。
陽菜がデスクから顔を上げた。
「瀬川商事が、過去に外部の企業に行動データを提供したことはありますか」
陽菜の手が、止まった。
「父に聞きます」
陽菜はスマホを手に取った。
義隆への電話だった。
三コールで出た。
「陽菜か」
「会長、一つ確認させてください」陽菜は言った。「瀬川商事が過去に、社員や取引先の行動データを外部に提供したことがありますか。あるいは、管理を外部委託したことが」
電話の向こうで、沈黙があった。
「……なぜそれを」
「オムニ・データという企業に、私と篠原の行動パターンを把握されています。精度が高すぎる。私の幼少期から続く習慣まで予測されている。会社経由でなければ、説明がつきません」
また沈黙。
今度は長かった。
「……十八年前だ」義隆は言った。「当時、経営効率化のために外部のコンサル企業を入れた。全社員の行動データ、購買傾向、家族情報まで含めた包括的な管理委託だった」
「その企業が、オムニ・データの前身ですか」
「そうだと思う。当時は別の社名だったが、系列が一致する」
陽菜は少し間を置いた。
「私が幼い時のデータも、入っていますか」
「入っているはずだ。家族情報として提出した」
電話の向こうで、義隆が息を吐いた。
「あの時は、それが会社を守る唯一の計算だった。データを売って資金を得て、経営を安定させた。間違っていたとは今でも思っていない。ただ」
「ただ」
「お前の人生のデータが、他人の手に渡っていたとは、考えていなかった」
陽菜はスマホを持ったまま、窓の外を見た。
「わかりました。ありがとうございます」
電話を切った。
陽菜はしばらく、スマホを見ていた。
「父が、私のデータを売っていた」
蓮は何も言わなかった。
「十八年前。私が十歳の頃から。私が何を好み、どう動き、何に感情的になるかを、全部」
「はい」
「だから彼らは知っていた。私が今日、何を食べたかったかも。昨夜、何を調べようとしていたかも」陽菜は静かに言った。「私の計算は、最初から他人に読まれていた」
「陽菜さん」
「怒っていいですか」
「はい」
陽菜は一度、深く息を吸った。
「怒っています。父に対してではなく、そのデータを十八年間保持し続けて、今になって武器として使っている人間に対して」
蓮は陽菜を見た。
「怒りは正しいです」
「あなたが言うと、妙に説得力がある」
「怒りは、事実に基づいている時だけ有効です。今日の陽菜さんの怒りは、事実に基づいています」
陽菜は蓮を見た。
少し、力が戻ってきた目だった。
「どうすればいいですか」
「奪い返します」
「データを?」
「彼らの予測を、壊します」蓮は立ち上がった。「彼らのアルゴリズムには、弱点があります」
蓮はホワイトボードの前に立った。
マーカーを手に取った。
「彼らの予測モデルは、統計学に基づいています。膨大なデータから最も確率の高い行動を割り出す。でも」蓮は書いた。「統計は、過去のデータから未来を予測します。過去に一度もなかった行動は、予測できない」
「つまり、今日の屋台のように」
「はい。でもそれだけでは弱い。今日一回の例外は、明日にはデータとして吸収されます」蓮は続けた。「彼らを根本から攪乱するためには、彼らの予測に意図的に偽のデータを流し込む必要があります」
「偽のデータ」
「俺たちが『計算通りの行動』をすることで、彼らのモデルに誤った前提を積み上げます。そして、最も重要な場面で完全に予測外の行動を取る。モデルが自己矛盾を起こします」
陽菜はホワイトボードを見た。
「それを一人で設計するんですか」
「陽菜さんと、一緒に」蓮は答えた。「陽菜さんは十八年間、自分の計算パターンを持っています。そのパターンを、俺の記憶と組み合わせれば、彼らが最も読めない行動の設計ができます」
陽菜は少し考えた。
「面白い」
「やりますか」
「やります」陽菜は立ち上がった。「でもその前に、一つだけ」
「なんですか」
「エドワードに、宣戦布告しましょう」
蓮はコートのポケットから名刺を取り出した。
白い名刺だった。
エドワード・チェン。オムニ・データ。
裏が白かった。
蓮はボールペンを取った。
名刺の裏に、書いた。
数式ではなかった。
一文だった。
『あなたの予測の外に、俺の記録がある』
書いた。
陽菜が横から見た。
「それが挑戦状ですか」
「はい」
「もう少し長くてもいいんじゃないですか」
「これで十分です」
陽菜は少し笑った。
蓮はスマホを取り出した。
名刺に記載されていた番号を押した。
二コールで出た。
「篠原くん」エドワードの声は穏やかだった。「連絡を待っていました。予測通りのタイミングです」
「一つだけ伝えます」蓮は言った。
「どうぞ」
「明日、あなたの予測にない場所で会いましょう」
電話の向こうで、少し間があった。
「予測にない場所、というのは」
「俺が決めます。明日の朝に連絡します。場所は、俺が明日の朝にランダムで選びます。今の俺にも、まだわかりません」
「それは」エドワードが言いかけた。
「あなたのデータに、今夜の俺の思考は入っていません」蓮は続けた。「明日の朝の俺の選択は、今夜この瞬間に存在しない情報から生まれます。予測してみてください」
沈黙。
「……面白い」エドワードは言った。「待っています」
電話が切れた。
蓮はスマホを置いた。
陽菜が隣に立っていた。
「準備はいいですか」蓮は言った。
「いつでも」陽菜は答えた。
二人はホワイトボードを見た。
白い面に、計画が書き込まれ始めていた。
蓮の記録と、陽菜の計算が、同じ方向を向いていた。
今夜は、それが全てだった。
【記録:202X年〇月〇日 23:47】
オムニ・データとの対決、開始。
使用する武器:記録。予測不能な記憶。陽菜との協働。
三年前と同じ武器だった。
でも今夜は、一人ではなかった。
第57話 了
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