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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第四章「記録の向こう側」

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第57話「不可視の境界線、あるいは沈黙の反撃」

オフィスに戻った。

コートを脱いだ。

椅子に座った。

蓮は目を閉じた。

今日、オムニ・データが仕掛けてきたもの。

コーヒー豆の件。信号の件。サイネージの件。スマホの通知。

全部を、もう一度並べた。

【照合開始:オムニ・データの予測精度の根拠を逆算】

エチオピア産の豆。陽菜が今日買おうとしていた菓子。蓮の歩行速度に合わせた信号の切り替え。

これだけの精度で予測するためには、どれだけのデータが必要か。

購入履歴だけでは足りない。

行動パターンだけでも足りない。

もっと長期間の、もっと細かいデータが必要だ。

幼少期から積み上げてきた生活習慣。家族の嗜好。育った環境の中で形成された行動の癖。

蓮は少し考えた。

陽菜が幼少期から通っていた場所。瀬川家が使っていたサービス。

記憶を走らせた。

陽菜との会話の中で出てきた場所の名前。陽菜が自然に選ぶ物の傾向。

そこに、共通のパターンがあった。

全部が、瀬川家という「組織」の行動様式に根ざしていた。

「陽菜さん」蓮は言った。

陽菜がデスクから顔を上げた。

「瀬川商事が、過去に外部の企業に行動データを提供したことはありますか」

陽菜の手が、止まった。

「父に聞きます」

陽菜はスマホを手に取った。

義隆への電話だった。

三コールで出た。

「陽菜か」

「会長、一つ確認させてください」陽菜は言った。「瀬川商事が過去に、社員や取引先の行動データを外部に提供したことがありますか。あるいは、管理を外部委託したことが」

電話の向こうで、沈黙があった。

「……なぜそれを」

「オムニ・データという企業に、私と篠原の行動パターンを把握されています。精度が高すぎる。私の幼少期から続く習慣まで予測されている。会社経由でなければ、説明がつきません」

また沈黙。

今度は長かった。

「……十八年前だ」義隆は言った。「当時、経営効率化のために外部のコンサル企業を入れた。全社員の行動データ、購買傾向、家族情報まで含めた包括的な管理委託だった」

「その企業が、オムニ・データの前身ですか」

「そうだと思う。当時は別の社名だったが、系列が一致する」

陽菜は少し間を置いた。

「私が幼い時のデータも、入っていますか」

「入っているはずだ。家族情報として提出した」

電話の向こうで、義隆が息を吐いた。

「あの時は、それが会社を守る唯一の計算だった。データを売って資金を得て、経営を安定させた。間違っていたとは今でも思っていない。ただ」

「ただ」

「お前の人生のデータが、他人の手に渡っていたとは、考えていなかった」

陽菜はスマホを持ったまま、窓の外を見た。

「わかりました。ありがとうございます」

電話を切った。

陽菜はしばらく、スマホを見ていた。

「父が、私のデータを売っていた」

蓮は何も言わなかった。

「十八年前。私が十歳の頃から。私が何を好み、どう動き、何に感情的になるかを、全部」

「はい」

「だから彼らは知っていた。私が今日、何を食べたかったかも。昨夜、何を調べようとしていたかも」陽菜は静かに言った。「私の計算は、最初から他人に読まれていた」

「陽菜さん」

「怒っていいですか」

「はい」

陽菜は一度、深く息を吸った。

「怒っています。父に対してではなく、そのデータを十八年間保持し続けて、今になって武器として使っている人間に対して」

蓮は陽菜を見た。

「怒りは正しいです」

「あなたが言うと、妙に説得力がある」

「怒りは、事実に基づいている時だけ有効です。今日の陽菜さんの怒りは、事実に基づいています」

陽菜は蓮を見た。

少し、力が戻ってきた目だった。

「どうすればいいですか」

「奪い返します」

「データを?」

「彼らの予測を、壊します」蓮は立ち上がった。「彼らのアルゴリズムには、弱点があります」

蓮はホワイトボードの前に立った。

マーカーを手に取った。

「彼らの予測モデルは、統計学に基づいています。膨大なデータから最も確率の高い行動を割り出す。でも」蓮は書いた。「統計は、過去のデータから未来を予測します。過去に一度もなかった行動は、予測できない」

「つまり、今日の屋台のように」

「はい。でもそれだけでは弱い。今日一回の例外は、明日にはデータとして吸収されます」蓮は続けた。「彼らを根本から攪乱するためには、彼らの予測に意図的に偽のデータを流し込む必要があります」

「偽のデータ」

「俺たちが『計算通りの行動』をすることで、彼らのモデルに誤った前提を積み上げます。そして、最も重要な場面で完全に予測外の行動を取る。モデルが自己矛盾を起こします」

陽菜はホワイトボードを見た。

「それを一人で設計するんですか」

「陽菜さんと、一緒に」蓮は答えた。「陽菜さんは十八年間、自分の計算パターンを持っています。そのパターンを、俺の記憶と組み合わせれば、彼らが最も読めない行動の設計ができます」

陽菜は少し考えた。

「面白い」

「やりますか」

「やります」陽菜は立ち上がった。「でもその前に、一つだけ」

「なんですか」

「エドワードに、宣戦布告しましょう」

蓮はコートのポケットから名刺を取り出した。

白い名刺だった。

エドワード・チェン。オムニ・データ。

裏が白かった。

蓮はボールペンを取った。

名刺の裏に、書いた。

数式ではなかった。

一文だった。

『あなたの予測の外に、俺の記録がある』

書いた。

陽菜が横から見た。

「それが挑戦状ですか」

「はい」

「もう少し長くてもいいんじゃないですか」

「これで十分です」

陽菜は少し笑った。

蓮はスマホを取り出した。

名刺に記載されていた番号を押した。

二コールで出た。

「篠原くん」エドワードの声は穏やかだった。「連絡を待っていました。予測通りのタイミングです」

「一つだけ伝えます」蓮は言った。

「どうぞ」

「明日、あなたの予測にない場所で会いましょう」

電話の向こうで、少し間があった。

「予測にない場所、というのは」

「俺が決めます。明日の朝に連絡します。場所は、俺が明日の朝にランダムで選びます。今の俺にも、まだわかりません」

「それは」エドワードが言いかけた。

「あなたのデータに、今夜の俺の思考は入っていません」蓮は続けた。「明日の朝の俺の選択は、今夜この瞬間に存在しない情報から生まれます。予測してみてください」

沈黙。

「……面白い」エドワードは言った。「待っています」

電話が切れた。

蓮はスマホを置いた。

陽菜が隣に立っていた。

「準備はいいですか」蓮は言った。

「いつでも」陽菜は答えた。

二人はホワイトボードを見た。

白い面に、計画が書き込まれ始めていた。

蓮の記録と、陽菜の計算が、同じ方向を向いていた。

今夜は、それが全てだった。

【記録:202X年〇月〇日 23:47】

オムニ・データとの対決、開始。

使用する武器:記録。予測不能な記憶。陽菜との協働。

三年前と同じ武器だった。

でも今夜は、一人ではなかった。


第57話 了


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