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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第四章「記録の向こう側」

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第56話「予測された日常、侵食するアルゴリズム」

翌朝、オフィスに荷物が届いた。

差出人が書いていなかった。

中身は、コーヒー豆だった。

エチオピア産。中深煎り。焙煎日が今日だった。

蓮はそれを見た。

今朝、目覚めた時に「酸味のある豆が飲みたい」と思っていた。

思っていただけで、誰にも言っていなかった。

「これ」陽菜が封を開けた。「あなたが好きなやつですね」

「はい」

「頼みましたか」

「いいえ」

陽菜は封を閉じた。

「オムニ・データ」

「だと思います」蓮は豆を見た。「なぜ彼らが知っているのか。俺が今朝、エチオピア産の酸味を求めていると」

「どうやって」

「昨夜の会食後の歩き方、帰宅時間、購入履歴、睡眠パターン。それらを組み合わせれば、今日の体調と嗜好は予測できます」蓮は答えた。「俺が三年間、他人の行動を記録してパターンを把握したのと、同じことです」

「同じことを、やられたということですか」

「はい」

陽菜のスマホが鳴った。

メールだった。

差出人、不明。

件名:「本日のご参考に」。

本文には、陽菜が昨夜から「調べようと思っていた」情報が、綺麗にまとめられていた。

検索する前に、答えが届いていた。

陽菜はスマホを置いた。

「気持ちが悪い」

「同感です」

「これは」陽菜は続けた。「私たちの行動を、数式にしているということですね」

「はい。俺たちの思考パターンと行動履歴を学習して、次の行動を予測している。そしてその予測を先に提示することで、俺たちに『見られている』という感覚を植え付ける」

「目的は」

「揺さぶりです」蓮は豆を棚に置いた。「この豆は使いません」

昼前、蓮は外に出た。

一人だった。

高梨に提出する書類を届けるための外出だった。

十五分の道のりだった。

三分歩いたところで、異変が始まった。

交差点の信号が、蓮が近づくたびに青になった。

最初は偶然だと思った。

二回目も青だった。

三回目も。

【記録:信号の切り替わりタイミング、通常パターンと比較。連続三回、蓮の歩行速度に合わせた切り替えを検知】

信号のシステムに介入している。

歩き続けた。

デジタルサイネージの前を通った。

画面が切り替わった。

「記録しませんか、この瞬間を」

というキャッチコピーの広告だった。

一歩進んだ。

別のサイネージ。

「あなたの次の行動、もう決まっています」

製品とは無関係なコピーだった。

蓮の歩が遅くなった。

スマホに通知が来た。

知らないアプリからだった。

「現在地から徒歩二分の店舗に、本日限定でエチオピア産の豆が入荷しています」

蓮はスマホを見た。

通知を閉じた。

そのまま歩いた。

でも、頭の中で何かが始まっていた。

全方位からデータが流れ込んできていた。

信号のパターン。サイネージのコピー。通知の内容。すれ違う人間の動き。

全部が「蓮を向いていた」。

【警告:全天周囲記録、過負荷。外部からの予測データが流入中。現在の記録と外部の予測が混濁開始】

今の自分の行動が、本当に「自分が決めたこと」なのか。

それとも、彼らに予測された動きをなぞっているだけなのか。

区別が、つかなくなりかけた。

信号が青になった。

渡ろうとした。

【警告:この行動、外部予測データと九十二パーセント一致】

足が止まった。

渡らなかった。

信号が赤に変わった。

立ち止まったまま、次の青を待った。

それも予測されているかもしれなかった。

頭の中が、静かにならなかった。

オフィスに戻った時、陽菜が蓮の顔を見た。

「外、どうでしたか」

「少し」蓮は椅子に座った。「揺らぎました」

陽菜は蓮の前に来た。

「何があったか、話してください」

蓮は話した。

信号のこと。サイネージのこと。通知のこと。

「俺の行動が、外部の予測と一致しているかもしれないと思ったら、自分の判断が信じられなくなりました」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「ねえ、蓮さん」

「はい」

「私と、今から出かけませんか」

「どこへ」

「決めていません」

蓮は陽菜を見た。

「書類が」

「午後に出せばいいです。今から一時間だけ」陽菜は立ち上がった。「記録しなくていいです。計算もしなくていいです。ただ、私についてきてください」

「何をするんですか」

「彼らが一番苦手なことをします」陽菜はコートを手に取った。「アドリブです」

オフィスを出た。

陽菜が歩いた。

特に方向を決めていない歩き方だった。

交差点に来た。

右か左か。

陽菜は空を見た。

「あっちに雲が少ないです。そっちにしましょう」

右に曲がった。

蓮は陽菜についていった。

五分歩いた。

バス停があった。

「次のバス、どこ行きですか」陽菜がバスの行き先を見た。

「〇〇行きです」蓮は答えた。「行ったことがありません」

「乗りましょう」

バスが来た。

乗った。

【記録:この行動、外部予測データとの一致率】

照合しようとした。

「やめてください」陽菜が言った。

「何を」

「一致率を確認しようとしたでしょう」

「……していました」

「確認しなくていいです。どうせ彼らは膨大なパターンを持っている。何をしても一致する可能性はある。でも、それは彼らが賢いんじゃなくて、パターンを集めているだけです」陽菜はバスの窓を見た。「パターンにない行動なんて、存在しないかもしれない。でも」

「でも」

「その行動に、どんな感情が伴っているかは、予測できない」

バスが動き始めた。

景色が流れた。

蓮は窓の外を見た。

知らない街が流れていった。

【記録】

しようとした。

止めた。

ただ見た。

バスを降りたのは、知らない商店街だった。

夕方になっていた。

人が歩いていた。

屋台があった。

「あれ」陽菜が指差した。「食べたことありますか」

屋台の前に止まった。

揚げたての何かが、並んでいた。

「ありません」

「じゃあ、これを」

陽菜が二つ頼んだ。

蓮は受け取った。

食べた。

熱かった。

外側がカリカリで、中に甘いものが入っていた。

「どうですか」陽菜が言った。

蓮は少し考えた。

「記録にありません」

「いい意味で?」

「いい意味で」

陽菜は笑った。

商店街に、夕暮れの光が差していた。

オレンジ色だった。

蓮はその色を見た。

【記録しようとした。止めた。ただ、見た】

「これは」蓮は静かに言った。

「なんですか」

「これだけは、絶対に彼らに予測させない」

陽菜が蓮を見た。

「今日のこれ。屋台のこの味。この色。陽菜さんが雲の向きでバスを決めた、その理由のなさ」蓮は続けた。「データにならないものがある。それを、今日初めて確信しました」

陽菜は屋台の揚げ物を持ったまま、蓮を見た。

「そうね」陽菜は言った。「私たちが感じていることは、数式にならない」

「なりません」蓮は答えた。「それが、彼らに対する俺たちの唯一の防御です」

夕暮れの商店街で、二人は並んでいた。

監視の目があったかもしれなかった。

でも今この瞬間の感触は、どんなデータにも変換できないはずだった。

【記録:202X年〇月〇日 17:54】

屋台の味。記録外。

陽菜が雲で決めた方向。記録外。

夕暮れのオレンジ。記録外。

記録外という欄が、今日だけで三つ増えた。

それが、今日最大の収穫だった。


第56話 了


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