第55話「招かれざる神の目、あるいはデータの選別」
料亭の個室は、静かだった。
畳の香り。床の間に一輪の花。障子越しに、庭の気配がした。
蓮は陽菜の隣に座っていた。
向かいに、瀬川義隆がいた。
七十代。白髪。瘦せた体格。目が鋭かった。瀬川商事を四十年率いてきた目だった。
その隣に、銀行の頭取。
「篠原さん」義隆が言った。「陽菜から話は聞いています。先日の件、感謝します」
「お役に立てたなら」
「一つ確認させてください」義隆は箸を置いた。「あなたは、三年前の書類を記憶しているとのことですが。それは本当に、一字一句ですか」
「はい」
「今この場で、証明できますか」
陽菜が少し身を固くした。
蓮は義隆を見た。
「何を証明しますか」
「私が三十年前に作成した社内向けの事業計画書がある。当時、全社員に配布した。あれは私が書いた。その一ページ目の書き出しを、あなたが言えるなら信じましょう」
「その書類は、三年前の資料の中にありませんでした」
義隆が少し目を細めた。
「ならば証明できない」
「ただ」蓮は続けた。「帝都物産が同時期に行っていた市場分析の中に、瀬川商事の動向として、その計画書の骨子が引用されていました。要点は三点です。第一に……」
蓮は述べた。
三点、全部を。
義隆が動かなかった。
「……それは」義隆は言った。「正確に、その通りです」
「敵が記録していたものから、逆算しました」
義隆はしばらく蓮を見た。
頭取が「これは」と言いかけて、止まった。
「陽菜」義隆は言った。
「はい」
「この男を、大切にしなさい」
陽菜は少し間を置いた。
「……わかりました」
義隆は箸を取った。
蓮は前を向いた。
【記録:202X年〇月〇日 19:44】
瀬川義隆会長、評価確定。陽菜に対し「大切にしなさい」と発言。
分類:重要。
会食の中盤に差し掛かった頃、蓮の視界に何かが入った。
配膳のスタッフが動いていた。
おかしかった。
【記録:スタッフA、歩幅。通常のサービス職の歩幅より十二パーセント短い。足音を抑えるトレーニングを受けた歩き方と一致】
【記録:スタッフB、視線の動き。料理ではなく、テーブルの会話参加者の口元を追っている】
【警告:配膳スタッフ二名の行動パターン、サービスマンの基準を逸脱。監視・追跡訓練を受けた個体である確率、八十四パーセント】
帝都物産の残党ではない。
彼らは既にアーカイブ済みだ。
瀬川会長の差し金でもない。義隆は今日の会食で蓮を試していた。自分の人間を使って監視する必要がない。
では誰か。
蓮は表情を変えなかった。
陽菜に気づかれないよう、スタッフを観察し続けた。
スタッフAが下がる際、袖口に小さな機器があった。
録音装置か、あるいは別のものか。
【記録:形状から推定。通信機器の可能性七十一パーセント。映像記録装置の可能性二十六パーセント】
蓮は陽菜の隣で、義隆と頭取の会話に参加しながら、同時に二人のスタッフの動線を全て記録し続けた。
陽菜が水を注がれた瞬間、スタッフAが蓮の斜め後方に位置した。
蓮は振り返らなかった。
でも記録した。
スタッフAの靴の形。ソールのパターン。特注品だった。
会食が終わり、料亭の玄関で義隆が車に乗った。
陽菜が「少し待って」と言って、蓮に近づいた。
「気づいていましたか」陽菜は小声で言った。
「スタッフですか」
「そうです。二人、変でしたね」
「記録しています」
「帝都物産の残党ですか」
「違うと思います」蓮は答えた。「動き方が、違います。もっとプロフェッショナルです」
陽菜は少し考えた。
「では誰が」
「わかりません。今夜中に調べます」
陽菜は蓮を見た。
「今夜は疲れたでしょう。会食で全部記録しながら、監視者まで追っていたんですか」
「並行して走らせていました」
「……無理しないでください」
「無理していません。ただ」蓮は少し間を置いた。「今夜は陽菜さんのコーヒーが飲みたいです」
陽菜は一秒、蓮を見た。
それから小さく笑った。
「帰りに豆を買います」
ホテルのロビーを出た時、男が立っていた。
四十代。外国人。長身。スーツが高価だった。
日本語で話しかけてきた。
「篠原蓮くん」
蓮は足を止めた。
「どなたですか」
「エドワード・チェン。株式会社オムニ・データの東アジア代表です」男は名刺を差し出した。「少しお話できますか」
「何の用ですか」
「今夜の会食、拝見しました。料亭のスタッフが我々のものだと、いつ気づきましたか」
「一時間前です」
エドワードは少し笑った。
「正確には五十七分前です。あなたが水を注がれた瞬間に視線が変わりました」
蓮はエドワードを見た。
「何が目的ですか」
「採用です」エドワードは言った。「我々はデータインテリジェンスの世界的な企業です。国家レベルの情報戦略に関与しています。あなたの能力を、我々のシステムと統合したい」
「断ります」
「まだ内容を聞いていない」
「聞く必要がありません」
エドワードは蓮を見た。
「篠原くん、あなたの記録は素晴らしい。でも、今のあなたはその能力を三流企業の復讐劇に使い切りました。それは国家的な損失です」
蓮は答えなかった。
「我々のシステムと統合すれば」エドワードは続けた。「あなたは数分後の未来を記録できる。過去だけでなく、現在の情報を全方位で集約すれば、未来は予測ではなく、記録になる」
「記録は、起きたことに対してするものです」蓮は言った。「起きていないことは、記録できません」
「それは今のあなたの限界です」
「限界ではありません。定義です」
エドワードは少し目を細めた。
「奥さん、ですか」エドワードが陽菜を見た。「計算の得意な女性ですね。彼女の計算能力も、我々には興味深い」
陽菜が蓮の隣に来た。
「お断りします」陽菜は静かに言った。「私たちには、別の使い道があります」
「今は、そう思っているでしょうね」エドワードは言った。「でも、人間の感情は変わります。困った時に連絡ください。我々は、いつでも最高の条件を用意できます」
エドワードは名刺を蓮のコートのポケットに入れた。
「記録しておいてください。その記憶の中に」
男が背を向けた。
ホテルのロビーに戻っていった。
途中で一度だけ振り返った。
陽菜を見た。
不敵な笑みを浮かべた。
それから、消えた。
夜風が吹いた。
「蓮さん」陽菜が言った。
「はい」
「今の人、どう思いますか」
蓮はコートのポケットの名刺を感じた。
「危険です」
「どう危険なんですか」
「俺に提示したものは、俺が最も揺らぎやすいものでした」蓮は答えた。「『より完全な記録者になれる』という提案は、三年前の俺なら受けていたかもしれない」
「今は」
「今は」蓮は陽菜を見た。「完全な記録者になる必要がなくなりました」
「なぜ」
「記録外の時間が、必要になったからです」
陽菜は蓮を見た。
「記録外の時間というのは」
「陽菜さんのコーヒーを飲む時間や、美術館で絵を見る時間や、計算を捨てた陽菜さんの顔を見る時間です」蓮は続けた。「完全な記録者になれば、そういう時間は全部データになります。俺はそれを望みません」
陽菜は少し間を置いた。
「……断れますか、本当に」
「はい。ただ」蓮は続けた。「向こうは諦めないと思います」
「どう対処しますか」
「三年前と同じです」蓮はポケットの名刺を感じた。「記録します。向こうの出方を全部、記録し続けます」
陽菜は蓮の横顔を見た。
「一人ではないです」陽菜は言った。「今度は」
「はい」蓮は答えた。「今度は、一人ではありません」
二人は歩き出した。
【記録:202X年〇月〇日 21:33】
エドワード・チェン。オムニ・データ。監視確認。接触確認。
新ターゲット設定。
でも今夜は。
それより先に。
コーヒーの記録をする。
第55話 了
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