第54話「記録の原風景、解けない孤独の正体」
雨だった。
窓の外に、静かな雨が落ちていた。
オフィスの照明だけが点いていた。
桐島は帰っていた。中村も帰っていた。
蓮と陽菜だけが、残っていた。
「話してもいいですか」陽菜が言った。
「はい」
陽菜はデスクの椅子を引いた。
座った。
窓の外の雨を、少し見た。
「母が亡くなったのは、私が十二歳の時でした」
蓮は聞いた。
「病気でした。長い間、体が弱かった。だから覚悟はしていた、と自分では思っていました」
「自分では、というのは」
「実際にその日が来た時、覚悟なんてできていなかったとわかりました」陽菜は続けた。「病院で、母が亡くなりました。私は泣きました。当然だと思います、十二歳でしたから」
陽菜は手を膝の上に置いた。
「その時、父に言われました。『泣いている時間は一分もない。次の弔問客のリストを頭に入れろ』と」
雨の音だけがした。
「父が冷たい人間だとは思いません」陽菜は続けた。「父なりに、忙しかった。瀬川家として、体裁を整えなければならなかった。感情より、義務が優先される家だったというだけで」
「でも」
「でも、十二歳の私には、それが全てでした」陽菜は静かに言った。「泣いていいとき、悲しんでいいとき、そういうものが、瀬川家にはなかった。役に立つことだけが、私がそこにいる理由でした」
蓮は聞き続けた。
陽菜が話した。
中学、高校、大学。
友人ができるたびに、その友人が「瀬川家の娘」という肩書きを目当てにしていないかを計算した。
恋愛に近いものがあるたびに、相手の目的を先に分析した。
「計算すれば、傷つかずに済むから」陽菜は言った。「全部が予測可能なら、誤算で傷つくことがない。感情を後回しにして、処理を先にすれば、誰にも弱みを見せなくていい」
「それが」
「あなたに最初に会った時、芸術品と言いました」陽菜は蓮を見た。「それは本当だった。でも今なら、もう少し正直に言えます」
「なんですか」
「嫉妬していたんだと思います」陽菜は静かに言った。「あなたは、誰かに求められたから記録していたんじゃない。誰かに必要とされたいから記録していたんじゃない。ただ、見たものを覚えていた。そこに理由がなかった」
「理由は」
「私には理由が必要でした。役に立つから計算する。愛されるために振る舞う。でもあなたは、理由なく全部を記録していた。雨の温度も、唾液の飛んだ先も」陽菜は少し笑った。「それが、私には信じられないほど自由に見えた」
蓮は陽菜を見た。
頭の中で、照合が走った。
【記録照合:202X年〇月〇日】
篠原蓮、解雇通知書を受け取った夜の記録。雨。気温十一度。段ボール一つ。誰も声をかけなかった廊下。
【記録照合:瀬川陽菜、十二歳の秋の描写】
病院の廊下。父の声。弔問客のリスト。泣くことを止めた夜。
二つの記録が、並んだ。
形が違った。
でも輪郭が、重なっていた。
「陽菜さん」蓮は言った。
「なんですか」
「陽菜さんは、自分を消すために計算していたんですね」
陽菜の手が動いた。
「消す」
「感情を消す。弱さを消す。計算できない自分を消す」蓮は続けた。「俺は逆でした。俺は、自分を残すために記録していました。誰も覚えてくれないから、自分で覚えていた。消えないために、全部を記録していた」
陽菜は蓮を見た。
「……逆」
「はい。でも、動機は同じだったかもしれません。孤独だったから、そうなった」
陽菜は少し間を置いた。
「そうね」静かに言った。「私たち、似た者同士だったのかもしれない」
「はい」
「あなたはずっと記録することで孤独と戦っていた。私はずっと計算することで孤独から逃げていた」
雨が、窓に当たっていた。
「でも」陽菜は続けた。「あなたに会ってから、少しずつ逃げなくなってきた」
「逃げない方が、いいですか」
陽菜は蓮を見た。
今夜の陽菜の目は、計算していなかった。
ただ、蓮を見ていた。
「怖いけれど」陽菜は言った。「あなたの前では、計算しなくていい気がする」
しばらく、二人とも黙っていた。
雨が続いていた。
「来週の会食」蓮が言った。
「はい」
「俺が隣にいます」
陽菜は蓮を見た。
「同席を、会長が認めましたが」
「それだけではありません」蓮は続けた。「計算を間違えても、俺が全部覚えています。先方が何を言ったか、陽菜さんが何を答えたか、会長がどう反応したか。一秒も欠けずに記録します。だから、計算しなくていい」
「計算しなくていい、というのは」
「俺が記録しているから、陽菜さんが感じることに集中していい。今日みたいに」
陽菜の目が、揺れた。
細かく、ゆっくりと。
「蓮さん」
「はい」
「私ね」陽菜は続けた。「十二歳の時から、人前で泣かないようにしてきました。泣いても意味がないと思っていたから。泣くことは計算外の行動だから」
「はい」
「今日は」陽菜の声が少し変わった。「少しだけ」
声が途切れた。
蓮は陽菜を見た。
陽菜の目に、光が溜まっていた。
こぼれなかった。こぼれないように、陽菜がこらえていた。
でも、瞳の中に、確かに光があった。
「泣いていいですよ」蓮は言った。
「計算外です」
「陽菜さんが計算外のことをしていい相手は、俺だと思っています。その約束は、できます」
陽菜は少し笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「記録しますか、もし泣いたら」
「します」蓮は答えた。「でも今回は、分類を変えます」
「何に分類しますか」
「信頼」
一粒だけ、こぼれた。
陽菜の左目から、一粒だけ。
陽菜はすぐに手で押さえた。
「みっともない」
「みっともなくありません」
「十二年分だから」陽菜は笑った。「少しだけ、許してください」
「全部、許可します」
陽菜は手を顔から離した。
目が赤かった。
でも、今夜の陽菜は、いつより綺麗だった。
計算していない顔は、こういう顔なのか、と蓮は思った。
【記録:202X年〇月〇日 22:58】
瀬川陽菜、一粒だけ涙。
分類:信頼。
十二年分の重さがある。
「来週の会食」蓮は言った。「準備しましょう」
陽菜は頷いた。
「はい」
声が、少し違った。
三年前から計算で作られてきた声ではなかった。
今夜初めて、陽菜自身の声だった。
窓の外の雨が、少し静かになっていた。
二人はデスクを並べて、会食の準備を始めた。
計算と記録が、同じ方向を向いていた。
今夜初めて、同じ速度で動いていた。
【記録:23:11】
瀬川陽菜との波形、同期済み。
分類:更新完了。
次の記録:来週の会食。その先。
その先。
という言葉が、蓮の記録の中に初めて入った。
未来という名前の記録が、今夜から始まった。
第54話 了
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