第53話「重なる波形、共鳴する二人」
黒いファイルが、陽菜のデスクに置かれた。
午前中に届いていた。
会長の秘書から、直接。
陽菜はそれを午後まで開かなかった。
開かなくても、中身が何か、なんとなくわかっていた。
夕方、一人になってから開いた。
書類が入っていた。
一枚目は、来週の会食の詳細だった。
二枚目は、別の内容だった。
競合他社の内部情報に関する調査依頼。入手経路は、グレーなルートを指定してあった。
陽菜はそれを読んだ。
【これが瀬川家のやり方】
そう思った。
帝都物産と戦っている間、父がこういうことをしないと信じていた。
いや、信じたかっただけかもしれない。
石倉の件は「社員の暴走」だった。父は直接関与していなかった。
でも今回は、父の指示だった。
陽菜は書類を裏返した。
計算を始めた。
断れば、父との関係が悪化する。会長権限で自分の立場が弱くなる。来週の会食で不利になる。会社の将来への発言権が下がる。
受けた場合、目標の企業に対して不利益が生じる。法的にグレーな手法を用いることになる。自分の信条に反する。
天秤にかけた。
天秤が、揺れていた。
どちらにも傾かなかった。
それが、苦しかった。
三年前の自分なら、もっと早く答えが出ていた。
「陽菜さん」
蓮がデスクの前に来ていた。
陽菜は書類を伏せた。
でも遅かった。
「何のファイルですか」
「問題ありません。私が処理します」
蓮はデスクを見た。
伏せられた書類の端が、少しだけ見えていた。
「解析しましょうか」
「いいです」
「陽菜さん」蓮は続けた。「今日の午後から、波形が乱れています」
「波形?」
「動き方、言葉の選び方、視線のパターン。いつもと三点ほど違っています。原因は、そのファイルだと推定されます」
陽菜は少し間を置いた。
「……読まなくても、わかるんですか」
「陽菜さんのことは、よく記録されています」
陽菜はファイルを手に取った。
蓮に渡した。
「見ても、誰にも言わないでください」
「高梨検事には」
「言わないでください」陽菜は言った。「まだ何も決めていないので」
蓮は書類を読んだ。
一枚目。
二枚目。
三秒で読み終えた。
【記録:照合開始】
対象企業名。財務データ。直近三期の決算書。公開情報との照合。
三年前のシュレッダー資料との照合。
五秒。
「陽菜さん」
「なんですか」
「汚い手を使う必要はありません」
陽菜が蓮を見た。
「この企業の財務データの中に、もっと効率的な介入ポイントがあります。来週の会食で、先方の頭取が関心を持っている案件と、この企業の動向が連動しています。正規の情報だけで、会長が望む結果を別の経路で達成できます」
「正規の情報で?」
「はい。三年前の資料に、この企業の名前が一度出てきます。帝都物産との取引候補として記録されていましたが、最終的に見送られました。見送られた理由が、今回の会長の指示の背景と関連している可能性があります」
陽菜は少し間を置いた。
「つまり」
「グレーな調査をしなくても、既にある情報を組み合わせれば、同じ結論に到達できます。合法的に。三年前の資料と、今日時点の公開情報だけで」
「どのくらいで整理できますか」
「今から十五分です」
陽菜はファイルを見た。
それから蓮を見た。
「お願いします」
十八分後、蓮は一枚の紙を陽菜に渡した。
手書きだった。
桐島からもらった万年筆で書いた文字が、整然と並んでいた。
「この三点を提示してください」蓮は言った。「会長が本当に求めているのは、情報そのものではなく、その情報を使って先方との交渉を有利にすることです。この方法なら、同じ効果が得られます」
陽菜は紙を読んだ。
一行目、二行目、三行目。
読み終えた。
「これ、全部今頭の中から出てきたんですか」
「三年前の資料と、今日の公開情報から組み合わせました」
「十八分で」
「少し時間がかかりました。七三年間の資料の量が多かったので」
陽菜は紙を見た。
それから、スマホを手に取った。
父への電話だった。
コール音が鳴った。
二回で出た。
「陽菜か」
「会長、ファイルの件です。別の案があります」陽菜は言った。「グレーな手法を使わなくても、同じ効果が得られる方法がありました。来週の会食で提示できます」
電話の向こうで、沈黙があった。
「根拠は」
「篠原が出しました。三点あります」
また沈黙。
「……その男を、会食に連れてきなさい」
陽菜の目が動いた。
「先ほど、不釣り合いとおっしゃっていましたが」
「それは、私が間違っていた。連れてきなさい」
電話が切れた。
陽菜はスマホを置いた。
手が、震えていた。
細かく、しかし確かに。
蓮はそれを見た。
「怖かったですか」蓮は言った。
「怖いというより」陽菜は手を見た。「久しぶりに、計算の外に出た感じがして」
「計算の外」
「父に、自分の意志で言ったのは」陽菜は続けた。「今日が初めてかもしれない」
蓮はデスクの隣に来た。
陽菜の震えている手を見た。
静かに、手を重ねた。
陽菜の手の上に、蓮の手が置かれた。
「今の陽菜さんの心拍数は」蓮は言った。「正しいリズムです」
陽菜が蓮を見た。
「心拍数がわかるんですか、触れただけで」
「わかりません。でも、正しいリズムだと感じます」
陽菜は少し笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「……蓮さん、今、非科学的なことを言いましたね」
「はい」
「珍しい」
「陽菜さんの計算を壊す必要がある時は、記録より感覚を優先することにしました」
陽菜の手の震えが、少し収まった。
蓮の手が、その上にあった。
「ありがとう」陽菜は静かに言った。
「何に対してですか」
「計算を、壊してくれて」陽菜は続けた。「私、ずっと計算で全部を処理してきた。それが正しいと思っていた。でもあなたといると、たまに計算を捨てた方が正しい結果になる。今日みたいに」
蓮はデスクの紙を見た。
「今日の結果は、計算から出てきたものです」
「あなたの計算は、私の計算と違います」
「どう違いますか」
「私の計算は、損をしないための計算です」陽菜は言った。「あなたの計算は、誰かを守るための計算です。同じ計算でも、向いている方向が違う」
蓮は少し考えた。
「守る相手が、できたからかもしれません」
陽菜は蓮を見た。
「誰ですか」
「今、手を触れている人です」
陽菜は答えなかった。
でも手が、少しだけ動いた。
蓮の手に、指先が触れた。
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
夜が深くなって、陽菜は帰り支度を始めた。
コートを着た。
バッグを持った。
「蓮さん」
「はい」
「明日、話したいことがあります」
「なんですか」
「今日より、もう少し昔のことを」陽菜は言った。「聞いてもらえますか」
蓮は頷いた。
「覚えていますか、明日も」
「忘れません」蓮は答えた。「一秒も」
陽菜はドアに向かった。
でも途中で止まった。
少しだけ、蓮の肩に頭を預けた。
一秒、二秒。
それから離れた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。
【記録:202X年〇月〇日 22:19】
陽菜の手の震え、収まった時刻:22:07。
所要時間:三分四十二秒。
肩への接触:二秒。
心拍数:97。
分類:整理不能。
整理不能のまま、保留した。
今夜は、それでよかった。
第53話 了
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