第52話「計算の裏側、冷たい方程式」
電話が終わった。
陽菜はスマホを置いた。
いつも通りだった。
でも蓮は、電話中の陽菜をずっと観察していた。
記録ではなかった。
観察だった。
クライアントからの電話だった。要件は複雑だった。先方の担当者が途中で変わり、話の方向が三回変わった。
陽菜は全部に対応した。
声のトーンを、相手に合わせて変えた。
専門用語を、相手の理解度に合わせて使い分けた。
相手が言いたいことを、相手が言い終わる前に把握して、答えを用意していた。
電話が終わった後の陽菜の表情は、穏やかだった。
でも蓮は一つ、気になるものを見ていた。
【推論:瀬川陽菜の対応速度。相手の呼吸、語彙、文の長さから感情状態を算出。最適なレスポンスを選択。処理パターンの類似度:篠原蓮との比較で約七十三パーセント】
七十三パーセント。
三年前の自分と、同じ処理をしていた。
「何か」陽菜が言った。
「見ていました」
「見ていて、どうでしたか」
「俺の処理パターンに似ていると思いました」
陽菜は少し間を置いた。
「計算が速い、という意味ですか」
「相手を分析して、最適な返しを選んでいる、という意味です」
陽菜はスマホを引き出しにしまった。
「誰でもやっていることよ」
「そうかもしれません」蓮は答えた。「でも、陽菜さんは特に速い。そして、特に正確です」
陽菜は何も言わなかった。
その沈黙を、蓮は記録した。
夕方、瀬川商事から連絡が来た。
義隆会長からだった。
「陽菜、来週の月曜日、〇〇銀行の頭取との会食がある。出席しなさい」
電話越しの声だった。
陽菜は「わかりました」と答えた。
「先方は陽菜の顔を見たがっている。瀬川家の代表として、適切に振る舞うように」
「はい」
「例の篠原という男は連れてこなくていい。あの場には不釣り合いだ」
陽菜は一秒だけ間を置いた。
「わかりました」
電話が切れた。
蓮は陽菜の横顔を見た。
一瞬だけ、何かが消えた。
目が、「無」になった。
コンマ数秒だった。
すぐに戻った。
でも蓮は、その瞬間を見ていた。
「会食ですか」蓮は言った。
「来週月曜日に」陽菜は答えた。「あなたは来なくていいです。会長が」
「聞こえていました」
陽菜は少し固まった。
「盗み聞きでは」
「音量が大きかったので」
陽菜はデスクの上の書類を整えた。
何かを整理するような手の動きだった。
「会長は、あなたのことを嫌いなわけではありません」陽菜は言った。「ただ、場の計算をしているだけです。あの場にあなたがいると、先方の担当者がどう反応するか読みきれないから」
「理解しています」蓮は答えた。「一つ確認していいですか」
「なんですか」
「陽菜さん自身は、行きたいですか。その会食に」
陽菜の手が止まった。
「……行くべき場です」
「行きたいかどうかを聞いています」
陽菜は少し間を置いた。
「同じことです」陽菜は静かに言った。「私には、行くべきことと行きたいことが、ずっと同じでした」
蓮はその言葉を聞いた。
記録した。
でも記録より先に、何かが動いた。
夜、二人で歩いた。
街灯が等間隔に並んでいた。
しばらく、黙って歩いた。
「陽菜さん」蓮が言った。
「はい」
「陽菜さんも、記録しているんですか」
陽菜の足が、わずかに遅くなった。
「記録?」
「俺は記憶として全部を記録しています。陽菜さんも、周囲の人間を分析して、最適な対応を計算している。それは記録と同じ処理です」
陽菜はしばらく黙って歩いた。
「……そうね」陽菜は言った。「記録していると言えば、そうかもしれない」
「いつ頃から」
陽菜は空を見た。
夜空に、星が少し出ていた。
「物心ついた頃から」陽菜は静かに言った。「父は忙しかった。母は、体が弱かった。私が何かをすると、誰かが得をする、あるいは損をする。そういう構造を、小さい頃から感じていました」
「家族の中で」
「瀬川家という組織の中で」陽菜は続けた。「私は有能でなければなりませんでした。感情を出すことよりも、役に立つことの方が求められていた。だから計算を覚えました。相手が何を求めているか。どう動けば場が滑らかになるか。どうすれば誰かに必要とされるか」
街灯の下を通った。
光が当たって、陽菜の顔が一瞬明るくなった。
「あなたのことを最初に見た時、芸術品と言ったでしょう」陽菜は続けた。
「覚えています」
「あれは本当のことでした。でも今は、少し意味が変わって理解できます」陽菜は足を止めた。「私は全部を計算してきた。役立つ情報しか使わない。無駄を嫌う。でもあなたは、関係ないものまで全部覚えていた。雨の温度。皿が割れた音。唾液が三滴飛んだこと」
「はい」
「私には絶対にできないことでした。計算に関係ないから、そういうものは自然と消えてしまう。でもあなたは消さなかった」陽菜は蓮を見た。「それが、私には眩しかった。自分にはできない贅沢だったから」
蓮は陽菜を見た。
「陽菜さん」
「なんですか」
「陽菜さんの計算に、俺は入っていますか」
陽菜は少し目を見開いた。
風が吹いた。
陽菜の髪が揺れた。
「……入れようとして」陽菜は静かに言った。「できなかった」
「できなかった」
「あなたは、唯一の計算不能な要素よ」陽菜は前を向いた。「最初に会った時から。あなたの次の言葉が、次の行動が、私には読めない。三年間、計算で全部を処理してきたのに、あなただけは」
陽菜の声が、少しだけ揺れた。
「計算できない人間を、私は怖いと思っていました。読めない相手は、信頼できないと思っていた。でも」
「でも」
「あなたは違いました」陽菜は蓮を見た。「計算できないのに、信頼できた。計算できないのに、隣にいたかった」
蓮は陽菜を見た。
街灯の光の中に、陽菜がいた。
計算高い女性ではなかった。
ただ、長い間一人で計算し続けてきた、一人の人間がいた。
【記録:202X年〇月〇日 21:33】
瀬川陽菜。計算不能との発言。対象:篠原蓮。
声の揺れ:検出。
分類:重要。
「一つだけ」蓮は言った。
「なんですか」
「俺も、陽菜さんの計算に入れてもらえなくて構いません」
陽菜が蓮を見た。
「計算の外にいる方が、俺は陽菜さんの隣にいられる気がします」
陽菜はしばらく蓮を見た。
それから、少しだけ笑った。
今夜一番、力が抜けた笑顔だった。
「……そう。じゃあ、ずっと計算不能のままでいてください」
「そのつもりです」
二人はまた歩き始めた。
街灯が続いていた。
等間隔に、前へ。
【記録:21:35】
陽菜の笑顔。力が抜けた時の顔。
分類:新規。優先度:最高。
今夜の最優先記録。
第52話 了
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