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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第四章「記録の向こう側」

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第51話「無意識の空白、記録されない吐息」

朝のセルフチェックを走らせた。

蓮は毎朝、起きた直後に前日の記録を確認する習慣があった。

昨日の気温。移動した距離。会話の内容。摂取した食事。

全部が、精密に並んでいるはずだった。

昨日の夜の記録を呼び出した。

【記録:202X年〇月〇日 18:00〜20:00】

桐島コンサルにて業務。書類三件処理。陽菜との会話、業務内容中心。内容、詳細あり。

問題なかった。

【記録:202X年〇月〇日 20:00〜22:00】

読み込んだ。

止まった。

【警告:当該時間帯の環境データ、精度不足。気温記録:欠落。店内BGM:未記録。周囲客数:不明。注文内容:記録あり(コーヒー、一杯)。主要記録対象(瀬川陽菜)の表情ログ:過剰に詳細。発言内容:完全記録。ただし周辺データが極端に欠落しているため、総合的な精度は通常比、約三十一パーセント低下】

三十一パーセント。

蓮は画面を見るように、頭の中のデータを見た。

確かに、陽菜の話した内容は全部あった。

陽菜が笑った時の目尻の形も、あった。

コーヒーを飲む時に少しだけ目を細める癖も、あった。

でも、その間に流れていた音楽は何だったか。

隣のテーブルに何人いたか。

窓から見えた街の景色は。

全部、ない。

「……バグか」

蓮は声に出して言った。

部屋に誰もいなかった。

答える人間はいなかった。

カフェは、昨日と違う店だった。

陽菜が「今日は別のところへ」と言って連れてきた。

窓際の席。外が見えた。

「最近、どうですか」陽菜が言った。業務の話ではない雰囲気だった。

「昨夜の記録に、精度不足が出ました」蓮は答えた。

陽菜がカップを持ったまま止まった。「精度不足?」

「環境データが欠落していました。三十一パーセント低下です」

「それは」陽菜は少し考えた。「問題なんですか」

「通常ではありません」

「何が原因だと思いますか」

蓮は陽菜を見た。

陽菜の目に、窓から差し込む光が当たっていた。

瞳の中に、光の粒があった。

【記録開始:瀬川陽菜、左眼。光の反射角度、推定三十二度。虹彩の色、濃い茶色に見えるが光の当たり方によって琥珀色に変わる。まつ毛の本数、上まつ毛】

「蓮さん」

「はい」

「今、私の目を数えていませんか」

「まつ毛を」

「やめてください」陽菜は笑った。

蓮は視線を外した。

その瞬間、背後で皿が割れる音がした。

スタッフが「すみません」と言った。

他の客が振り返った。

蓮は振り返らなかった。

【処理優先度:低】として、完全にスキップしていた。

三年前なら、即座に振り返っていた。音の方向、原因、状況、全部記録していた。

今日は、陽菜の笑顔の方が優先されていた。

【警告:全天周囲記録、停止中。単一点集中モード、継続中】

「何か警告が出ていますか」陽菜が言った。

「なぜわかるんですか」

「目が少し違う動きをします。警告の時は」

蓮は陽菜を見た。

「俺の目を、記録しているんですか」

「自然に覚えてしまいます」陽菜は少し笑った。「あなたほど精密じゃないけれど」

蓮はコーヒーを飲んだ。

「警告が出ていました。周囲の記録が止まっていると」

「止まっていたんですか、さっきの音の時も」

「はい。陽菜さんを見ていたので、処理が向きませんでした」

陽菜はしばらく蓮を見た。

それからカップを置いた。

「蓮さん、それは」

「バグだと思います。脳の機能低下の可能性があります。高梨検事との連携が続いたストレスか、あるいは睡眠の」

「バグじゃないです」陽菜が言った。

蓮は止まった。

「それは」陽菜は静かに言った。「心が動いている証拠です」

夕方、二人は川沿いを歩いていた。

「相談があります」蓮が言った。

「なんですか」

「記録が疎かになっています。今日だけでなく、最近の傾向として」蓮は続けた。「陽菜さんといる時間の、周辺データの精度が著しく低下しています。原因は陽菜さんに意識が集中しているためだと推測されますが、これは能力の劣化である可能性があります」

陽菜は川を見た。

「劣化だと思いますか、本当に」

「わかりません。これまでに経験がないので、基準がありません」

陽菜は少し間を置いた。

「全部覚えている機械より」陽菜は言った。「私と一緒に笑ってくれる人間の方がいいわ」

蓮は陽菜を見た。

「笑っていましたか、俺は」

「今日、二回笑いました。カフェで皿が割れた後、スタッフが謝っている間。そしてさっき、私がまつ毛を数えるなと言った後」

蓮は少し考えた。

「記録にありません」

「それでいいんです」陽菜は言った。「記録する前に、感じていたということだから」

蓮は川を見た。

水が流れていた。

「記録をサボる」

「え?」

「記録をサボることを、俺に許可してください」

陽菜が足を止めた。

振り返った。

蓮が真剣な顔で言っていた。

許可を求めていた。

誰かに許可されないと、自分に認められないのだ、と陽菜は思った。

三年間、全てを記録することが自分の義務だと信じてきた人間が、初めて「サボりたい」と言っていた。

「許可します」陽菜は言った。

「ありがとうございます」

「かわりに」陽菜は続けた。「サボった分は、私の隣で感じてください。記録の代わりに」

蓮は少し間を置いた。

「感じる、というのは」

「難しく考えなくていいです。ただ、私の隣にいてください」

蓮は前を向いた。

川が流れていた。

夕暮れの光が、水面に散っていた。

【記録:202X年〇月〇日 17:58】

記録サボり、許可取得済み。

以降の非記録時間:陽菜との時間に限り、周辺データの欠落を許容する。

理由:陽菜さんの隣で感じるため。

記録した。

サボることを、記録した。

「今、サボることを記録しましたか」陽菜が言った。

「しました」

「それはサボっていません」

「矛盾が生じています」

陽菜が笑った。

川沿いに、笑い声が響いた。

蓮はそれを聞いた。

記録しなかった。

ただ、聞いた。

二人が角を曲がった後。

川沿いのベンチに、男が座っていた。

コートの襟を立てていた。

手にスマホを持っていた。

画面には、二人の後ろ姿が映っていた。

男はスマホを操作した。

画像を、送信した。

送信先には、一行のメッセージが添えられていた。

「確認しました。篠原蓮、現在、瀬川商事の令嬢と交際中と思われます。利用価値、あります」

男は立ち上がった。

コートの襟をさらに立てた。

別の方向へ、歩いていった。

川だけが、残った。

水が流れ続けていた。


第51話 了


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