第17話 物理学校へ
宮崎先生から物理学校でのアルバイトのお話をいただいた次の週、早速私達は千葉県野田市の物理学校へ赴いた。
朝新発田先生のおうちにルドルフを連れていき、そのまま常磐道を野田インターまで行く。高速代とガソリン代をけちるため、修二くんの軽にした。この車は軽自動車とは思えないパワーで快調に高速を走る。それは気持ちいいのだが、梅雨の走りの曇天で、車には傘もつんでおいた。運転する修二くんに話しかける。
「やっぱ梅雨があるね。去年もたいへんだった?」
「たいへんていうことはないけど、やっぱ洗濯物がやっかいだよね」
「そっか、今年は洗濯物が倍だ」
「いや、ルドルフもいるから」
「そうだった。でもあの子、意外と服汚さないよね」
「新発田先生のところでおとなしくしてるのかな」
「昼間はまほちゃんは学校、みほちゃんは幼稚園でしょ。遊び相手がいないんじゃない?」
「そうだよね、何してるんだろ?」
そんな会話をしているうちに物理学校に到着した。正門の守衛さんの指示で、駐車場に車を停める。
物理学校の野田キャンパスはとにかく空がひろい。広々としたキャンパスに建物同士の間隔が余裕を持って建てられ、じつのところ札幌国立大学よりも建物の密度が低い。ただし樹木は少ない。今は梅雨時だからいいが、真夏には木陰が欲しいだろうし冬場は季節風が厳しそうだ。そのことを修二くんに言ってみると、
「夏は暑くて木陰じゃ無理なんじゃない? 冷房一択と見た」
と言われた。
「もしかして柏もそうなの?」
柏とは、帝大の柏キャンパスで、今は優花とか健太くんが研究している。距離的にも遠くない。
「うん、とにかく柏の夏は暑いよ。内陸だからね」
「ふーん」
学生たちとつぎつぎとすれ違うが、お互い挨拶はない。私達は初めて訪れたので知っている顔がいないが、学生同士もあまり挨拶していない。
「ここ、あんまり学生同士であいさつしないんだね」
「ああ、私学は国立と違って学生多いから、知っている顔の密度が低いんだろう」
「扶桑も私学だよ」
「扶桑は規模も小さいし、附属からの持ち上がりも多いじゃん」
「そっか。それに物理学校って、実はマンモス大学らしいよ」
「そうだってね。学生数が万を超えるらしい」
記憶によれば、大学の規模は扶桑の3から4倍に及ぶはずだ。
そんな話をしていたら、雨がポツポツと振り始めた。
「あ、傘忘れた」
車の後部座席に置いたままだった。二人でダッシュで戻ったら、吉岡先生との約束の時間ぎりぎりになってしまった。
吉岡先生の研究室は3階にあった。建物の作りはどことなく札幌の校舎を思い出す。研究室のドアをノックして返事を聞き、
「唐沢です。失礼します」
と語尾を伸ばさないように気をつけながら入室した。
室内は予想通り、入ってすぐ大きなテーブルがあり2人ほど学生が勉強している。奥に事務机がこちら向きにおいてあり、吉岡先生がにこやかに座っていた。私学の典型的な研究室のスタイルである。
吉岡先生はスラッとしていて白髪以外年齢を全く感じさせない。あの頭脳で有名な相互作用を明らかにしたと思うと、中を覗いてみたくなる。
「ちょっとまっててね」
吉岡先生はそう言って電話をかけ始めた。
電話で呼ばれたのは修二くんの雇い主の樋口先生で、すぐにやってきた。私達二人で頭を下げる。大テーブルに先生二人、私達二人で向かい合うように座った。樋口先生は誘電体の研究を主にやっていらっしゃるそうだ。
「東海村からわざわざ来てもらって、ありがとう。君たちがあの唐沢夫妻ね」
「あのってなんですか」
反射的に聞いてしまった。
「いや1年前の学会で、君、やってくれたらしいじゃないか」
わたしはその学会では名字を神埼で登録していたのに、自己紹介で唐沢と名乗ったのだ。そのあとで「旧姓神埼です」とやったから、「自分は結婚したぞ」と学会で発表してしまったことになる。
「実はあの場に僕もいたよ」
と吉岡先生がおっしゃった。磁性理論の大家にあれを聞かれていたかと思うと急にはずかしくなった。
「それで君たちに来てもらった理由なんだがね」
吉岡先生が話を続けた。それは疑問に思っていた。物理学校に来たばかりの吉岡先生はともかく、樋口先生は自分の院生くらいいるだろう。
「君たちは、出身大学から修士課程、博士課程といちいち所属を変えているだろう。ぼくの研究室に院生がいないということもあるけど、君たちみたいに積極的に動いている人を学生たちに見せたくてね」
「はあ」
「でね、樋口先生はSHELの榊原先生とお知り合いだというので、紹介してもらったんだよ」
つづいて樋口先生がおっしゃった。
「ま、そういうことだから。だけどふたりとも『唐沢先生』じゃ呼びにくいな」
修二くんがまず文句を言った。
「あの、僕達まだ、『先生』と呼ばれるほどのものじゃないと思いますが」
そのとおりだと思う。
「じゃあ『修二さん』と『杏さん』になるかな」
と吉岡先生は順当なことをおっしゃったが、樋口先生はとんでもないことを言い出した。
「じゃあさ、君は『修二さん』でも『唐沢さん』でもいいけど、杏さんはやっぱり『聖女様』なんじゃない?」
どのルートからその名前を聞いたのだろう。誘電体の樋口先生は私と接点はまったくない。ならば学会で騒ぎになっているときに吉岡先生に伝わったのかもしれない。ギロッと吉岡先生に視線を送ると先生は「僕じゃない」とばかりに手を振った。となると最も怪しいのは榊原先生だ。榊原先生がどのくらいバラしているか気になった私は樋口先生に聞いてみた。
「あの、私も誘電体に興味があるので、実験室見学させてもらってもいいですか?」
すると樋口先生は視線を泳がせ、
「あ、うん、いや、あ」
としどろもどろになった。
榊原先生はあだ名だけでなく、例の効果も伝えてくれたらしい。




