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第16話 バイトの誘い

 真美ちゃんとカサドンは慌ただしく東海村をあとにした。まあ二人の時間も必要だろうから、私は暖かく見送った。真美ちゃんに遊んでもらっていたあかねちゃんは若干不満そうであったが。


 翌月曜日、宮崎先生は修二くんを呼び出すように言ってきた。実験の手が空いたときでいいという。それでその日のお昼休みのあと、修二くんは先生と私の部屋にやってきた。

「失礼しま~す」

「ああ、唐沢くん、わざわざ悪いね。ソファーで話そう」

「はい」

「あ、聖女様、君も一緒にいいかな」

「はい」

 私は修二くんと並んでソファーに座った。


「君たちさ、毎週水曜って、なんかある?」

「私は御存知の通り、1日中こちらで研究です」

「ぼくも、基本的に実験ですね」

「そうだよね、それでさ、君たち物理学校、知ってるよね」


 物理学校、それは宇宙で一番ステキな名前の学校である。帝大物理の第1期卒業生が東京の花街に夜学からスタートした学校だ。今や東京の理系私学のトップとして君臨している。私の大学受験は附属の高校からそのまま女子大に内部進学だったが、一応外部受験も検討した。その場合第一志望は帝大になるが、滑り止めとして物理学校も受験したに違いない。当時は早く物理の勉強をしたくて受験勉強を回避してしまった。まあそれはともかく、私も将来は「物理学校教授」という肩書を手に入れたいものだ。


「聖女様、話聞いてる?」

「あ、はい、聞いてます」

 聞いてなかった。妄想で聞いていなかったことは、あきれたような修二くんの視線からするとバレている。

「だからね、バイト行かない、二人で?」

「行きます」

 私は脊椎反射のように承諾してしまった。「物理学校」というステキなワードに「二人で」ときたら、それはしかたないだろう。

「あの、内容ですが、申し訳ありませんがもう一度お話しいただけませんか。杏はちゃんとわかってないとおもいます」

「そうだよね」


「物理学校にこの春、吉岡先生が行ったの知ってるかい?」

 吉岡先生は、磁性理論の大家である。近藤効果と言って金属中の不純物が低温で電気抵抗を増加させる現象があるが、その深い部分での理解に足跡をのこしている。その理論は修二くんもやっている重い電子系物質の理解にも応用されている。この春帝大を定年退官され、物理学校に行かれたことは知っていた。

「吉岡先生が千葉のほうの物理学校で量子力学の演習授業をやってるんだけど、そのアシスタントがほしいそうなんだよ」

「なるほど、何年生ですか?」

「うん、3年生だって。手応えありそうだろ」

「そうですね」

「それで唐沢くんの方には、同じ時間帯、学生実験の手伝いをお願いしたいらしいんだ。こっちは2年生だって」

「はい」

 修二くんが返事した。

「唐沢くんは知らないだろうが、私学は学生の数が多くてね、教員は大変なんだよ」

「聞いてはいます」

「でさ、ここがポイントなんだけどさ、さっきいいそびれていたけど、午後は吉岡先生のゼミにも、二人で参加してほしいんだって」

「先生、僕は実験屋ですから、理論研のゼミではちょと力不足かとおもいますが」

「いやいや、君はよく勉強してるって。あとね、吉岡研はまだあたらしいから、メンバーは4年生ばっかりだってさ。きたえてあげてよ」

「わかりました。僕はいいお話だと思います。榊原先生の許可が出れれば」

「大丈夫。実はこの話は榊原先生経由で来た話なんだ」

「わかりました。杏、どうかな、あ、聞かなくてもいいか」

「みたいだね」

 宮崎先生の同意に、私は言っておく。

「失礼ですね、熟考しましたが、謹んでお受けしたいと思います」

「聖女様、うそはいかんよ、うそは」

 うそではない。「物理学校」「修二くんといっしょ」「吉岡先生のゼミ」とくれば熟考しようがしまいが結論はいっしょだ。

「まあさ、君たちは2人とも学位をとったら研究職希望だろ。ポストなんてどこにあるかわからないから、なるべく顔を売っといたほうがいいよ」

「「ありがとうございます」」


 実際問題、3年近く先のことではあるが学位をとったあとのことは大問題である。私達二人は大学院大学の院生だ。ここの特徴は、博士号をとったらそのままその場所で就職することは認められていないということである。とにかく大学でも企業でも、他のところに行かなくてはならない。3年先は確実に二人共東海村にはいないということだ。ポスドクと言って、しばらくは学術振興会からお金を出してもらう制度はある。それでも東海村にはいられないし、二人一緒の場所になる保証もないし、最大でも3年である。うまいこと行ってどっかの同じ大学などに助教として就職できたとしても、その立場は不安定である。研究機関によっては有期雇用だし、たとえば助教から講師とか准教授などにステップアップする際、大学がかわることも普通である。

 実例として、札幌国立大学の大石先生の奥様真弓さんは研究生である。研究生とは大学院は終了し学位も持っているのだが、学生と同じ学費を払って大学に籍をおいている人である。本来なら研究をしてお給料をもらうところなのにである。大石先生との生活を優先して、学問的にも社会的にも不自由な立場に甘んじているのが真弓さんである。私自身、将来同じようなことにならないとはとても言えない。ていうか、同じことになる確率のほうが高い気がする。

 

 なお、研究者は真弓さんほどでなくても雇用という面では不安定である。それがゆえに実績を出したいばかりに不正な論文を出してしまう者もいるようだ。だからもっと研究者に安定的な雇用を保証すべきだという意見は当然ある。

 しかし現在の日本がこのようになったのは、実は理由がある。二十世紀、一旦大学の教員になると定年まで雇用が保証され、しかも一般的な職業よりも定年は遅かった。その立場をいいことにろくな研究をしない学者がたくさんいたとも聞いている。それでは諸外国との競争に負けてしまう。だから近年はちゃんと研究をして論文を出していかないと研究者を続けられなくなっているのだ。それでも査読のない論文集に論文をのっけて研究成果だと言い張っている研究者もいるので油断がならない。(しかもそんなのに限って日本語で論文を書いている)

 

 まあそれはともかく、新しい場所に飛び込むのは学問的に楽しみでしかない。その結果唐沢夫妻の存在が方方に知られれば私達の就職にも有利に働くだろうし、後輩の女性研究者にも勇気を与えられればと思っている。

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