天使の庭(5)
その部屋は他の部屋とは一風変わった空気が充満していた。血と汗、それから濃密な生活臭。食べ物なのか汚物なのかいまいち判別がつかないそんな饐えた臭い。部屋には何人もの人間がいた。いやそれを人間と呼んでいいのかどうか、エステルには瞬時に判断がつかなかった。
しかしすぐに、人間に決まっている、人間以外の何なのだ、とエステルは自分を責めた。そんなエステルを見て、部屋の主――黒い髪の少女は微笑んだ。
「英雄派遣会社の英雄様、ですね? お初にお目にかかります。ゾフィーと申します」
その少女は普通の人間ではなかった。美貌の持ち主ではあったが、その顔には三つの目があった。正常の位置に二つある他に、顎の近くに小さな目がぱちぱちと瞬きをしている。
それだけでもなかなか強烈な見た目だったが、首から下となるとかなり異様だった。少女はほとんど裸だった――だからといって見る者に官能的な感情を呼び起こさせるかと言うと、そうではない。腕から剥き出しの血管の塊がぶら下がっていた。乳房の位置に歯が生えていた。左腕の一部が隆起し内臓のようなものが薄い表皮の奥に潜んでいる。それはまるで人体のパーツを適当に彼女の躰にくっつけているかのような突飛な姿で、エステルは絶句した。
「人間の境界はどこにあると思われますか」
少女ゾフィーは尋ねてくる。エステルは彼女の姿に目を奪われていて、すぐに返事ができなかった。
「……え?」
「人間の境界です。たとえば、英雄様、あなたから腕を一本千切り取ったとして、依然あなたは人間と言えますか?」
エステルは自分の右腕を見下ろした。片腕になったら剣を上手く扱えないな。とは思ったが、それで人間でなくなるなんてことはありえない。世の中には片腕しかない人間は幾らでもいる。
「当然、人間です。腕が一本なくなったからって、人間でなくなるなんてありえません」
「そうですよね。では、両腕がなくなってしまったら?」
「同じです。人間に決まっています」
「では両腕に加えて、両脚がなくなっても?」
「人間ですよ」
エステルはゾフィーの質問に答えつつも、不穏な予感に苦しめられていた。ゾフィーの周囲にいる虚ろな表情の人間たち。彼らは衣服を纏っているので肌がほとんど見えない。しかしその服の奥はどうなっているのか。
「では尋ねます。首から下全てを欠損したあなたは、まだ人間といえますか?」
「え? 首だけになるってことですか?」
「はい。当然、機械や器具で生命の維持は可能であるとします。思考すること、会話することにも不都合はありません。首だけの存在になっても人間であると言えますか」
「いったい、何を訊ねているのですか……。そんなことを聞いて何に」
「答えてください。首から上だけの存在になっても、その人は人間ですか」
「人間ですよ……」
エステルは答えた。ゾフィーはにこりと笑む。
「では肉の器の何もかもを失い、脳味噌だけになったあなたは、まだ人間と言えますか? 培養器の中だけでしか生きることができず、自らの思考を伝えるには特殊な機械で微弱な電気信号を受け取ってもらうしかなくなる。そんな存在になっても人間であると言えますか」
エステルは咄嗟に答えられなかった。質問の意図が掴めなかった。
エステルの後ろに控えていたアラディンが前に進み出て代わりに答えた。
「人間だよ。人間だ。脳味噌だけになったエステルさんもきっと人間さ。質問はこれで終わり?」
「いえ」
ゾフィーの表情がすっと引き締まる。
「外部とのコミュニケーションを電気信号の送受信でしか行えない。他の人間と対話するのに機械の力を借りるしかないというのでは、脳味噌が機械仕掛けのただの演算装置だったとしても、本物の脳味噌と大した違いがないということになりますね?」
「ならないと思うけど……、機械には思考や感情は宿らない」
アラディンが淀みなく答える。エステルは二人の会話についていけなかった。
「そうでしょうか? たとえば今、あなたが話している私という肉塊は、ただ人間らしく振る舞えと命令された機械なのかもしれません」
「そうなのかい?」
「いえ。私は人間ですが、しかしその機械も、人間らしく振る舞うよう命令されていたら、私は人間ですと答えることでしょうね」
「つまり意識の存在は自己だけでは証明できない。他者からの認知があって初めて『どうやら意識があるらしい』と判断されるだけ。人間の境界とはつまり、脳味噌だけになった人間は果たして人間と言えるのか。人間らしく振る舞う有機機械でしかないのではないか。そういうことだね?」
「はい」
ゾフィーは深く頷く。アラディンはハハハと笑った。
「残念だけど、やはり僕は、意識の存在は自己だけで完結すると思うね。他人からの認識なんて必要ない。僕が『僕はここにいる』と思うだけで、それはつまり人間の証明を成し遂げたことになるのさ」
「力強いお言葉ですね」
「きみにとってはそうだろう」
アラディンの言葉にゾフィーがみじろぎした。そして動揺を隠すように微笑で表情を誤魔化す。
「英雄様、あなたがたにとっては、私たちの仲間は相手にならないようですね」
「仲間というのは先ほどの魔物たちかな。あの異様にタフな」
「魔物……、とはなかなか呼びたくないのですが、確かに何も知らない方から見ればそう感じるのは仕方のないことなのかもしれません。彼らは自ら進んで『改造』に挑んだのです」
「改造?」
「ドゥリトル様は臓器培養の応用技術について研究を重ね、兵器転用できる水準にまで成果を挙げてきました。その素体に、彼らは進んでなったのです」
「戦闘能力を持つ為に?」
「自由を勝ち得る為に」
ゾフィーは言う。
「全ては、我々は人間であると高らかに宣言する為に……」
ゾフィーの言葉に、部屋にいる全ての人間が一斉に頷いた。ゾフィーの肌がみるみる変色していく。滑らかな肌がごつごつとした岩肌のような質感を持ち、筋肉が盛り上がっていく。
エステルが剣を構えて前に進み出た。
「待ってください! 闘うつもりですか!?」
「遠慮なく斬ってください。それこそが我々の願いです」
エステルには意味が分からない。エステルの目の前でゾフィーの姿が可憐な少女から灰褐色の肌の岩の魔物に変わった。翼が生え出てその黒い輪郭線がまるで蝶の羽のようにひらひらと舞った。エステルは剣を掲げつつも困惑していた。
「エステルさん、戦うしかないようだね」
「でもっ……!」
「ゾフィーさんが今回の一件の首謀者のようだ。彼女を仕留めれば、恐らく、他の連中は降伏するだろう」
「どうして……、こんなこと」
「倒してから話を聞いてみたらどうだろう」
倒してからって……。殺してしまってはもう話を聞けないではないか。エステルは不満に思いつつも、襲いかかってきたゾフィーに対応するべく跳躍した。




