『矛と盾の双璧』
四月中旬の冷え込む風が、狭隘な谷間を吹き抜ける。
両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷『血涙峡』。そこは数日前、帝国兵の悲鳴と炎、そして油の臭いに満ちていた地獄そのものであった。
帝国・セレスティア連合軍がその谷口に差し掛かった時、背後の山々から再び、けたたましい銅鑼の音が鳴り渡った。
「まただ! 敵の伏兵だ!」
近衛兵たちの一間に、一瞬だけ動揺が走る。前回のトラウマが脳裏をよぎったのだ。
崖の上から、新国軍の兵たちが姿を現し、巨大な岩や丸太、そして火を放った松明を投げ落とそうと構える。
「慌てるな!!」
だが、その動揺を打ち消したのは、イリアード親王の清冽な号令であった。
「前回の戦い、そして我がセレスティアの完璧な補給線を甘く見るな! 兄上がこの地を再び選んだのは、敵が同じ策に溺れると確信していたからだ!」
イリアードが手を掲げると、セレスティア軍の最後方に控えていた大盾を持った重装歩兵たちが即座に前進し、亀の甲羅のように頑強な陣形テストゥドを組み上げた。それだけではない。セレスティア軍の弓兵たちが手にするのは、南方の特殊な硬木で作られた大弓であった。
「放て!!」
崖の上からの落石よりも早く、下から上へと、凄まじい密度の矢の雨が放たれた。通常の弓では届かない崖の上の敵兵たちを、セレスティアの強弓が次々と射抜いていく。悲鳴を上げて崖下へと転落していくのは、新国軍の側であった。
「馬鹿な!? 奴ら、最初から我が軍の配置を見抜いていたかのように……!」
崖の上の新国軍の指揮官が驚愕する。それもそのはず、イリアードはヘクスハイム砦に到着した瞬間から、現地の狩人や斥候を使い、血涙峡の地形と張魁の伏兵が配置されやすいポイントを完璧に逆算していたのだ。
「今だ、兄上!」
イリアードが叫ぶ。
「おおお! 突撃せよ! 我が近衛の誇りを見せる時が来た!」
アラリックが自ら黒鉄の宝剣を抜き、先陣を切って馬を走らせる。その姿は、かつて数々の戦場を無敗で駆け抜けた若き覇王そのものであった。
皇帝みずからの突撃に、近衛兵たちの士気は限界を超えて跳ね上がる。一度は恐怖に震えた兵たちが、いまや狂戦士の如き咆哮を上げて、谷底に布陣していた張魁の前衛部隊へと襲いかかった。
「怯むな! 敵はたったの六千だ、押し包んで圧殺せよ!」
新国の将校たちも必死に叫び、二万の圧倒的な軍勢が数の暴力を以て帝国軍を押し潰そうとする。
激しい金属音が谷間に響き渡り、肉と肉がぶつかり合う凄絶な乱戦が始まった。
◇
数において圧倒的に勝る新国軍は、谷の奥から次々と新鮮な兵力を投入し、帝国軍を包囲しようと動く。しかし、今回のアラリックとイリアードは、前回の「猪突猛進」とは根本的に異なっていた。
アラリック率いる三千の近衛・親衛隊は、鋭利な「矛」として新国軍の中央を容赦なく抉り進む。
「崔厳の首はどこだ! 張魁、貴様の首で、我が兵一万の供養としてくれる!」
アラリックの剣技は冴え渡り、彼が駆ける後には新国兵の屍の山が築かれていく。自ら血を流し、泥に塗れながらも、決して歩みを止めない皇帝の姿は、敵兵にとって恐怖の象徴そのものであった。
一方で、そのアラリックの背後と側面を完璧に護る「盾」の役割を果たしていたのが、イリアード率いる三千のセレスティア軍であった。
新国軍が数の優位を活かし、アラリックの近衛軍を分断しようと左右から回り込もうとするたびに、イリアードが的確な指揮でそれを遮断する。
「左翼、二十歩下がって強固な戦列を維持せよ。右翼の騎兵隊は、敵の突出した部隊の横腹を突け」
イリアードの声は、どこまでも冷静で、冷徹ですらあった。
セレスティアの兵たちは、完璧に統制された機械のように動き、新国軍の包囲網の「芽」を、出現する先からことごとく摘み取っていく。
中央で激しく暴れ回るアラリックという猛獣と、それを完璧にコントロールし、後方を盤石に支えるイリアードという頭脳。異母兄弟であり、かつて皇位継承劇で共に戦った二人の「双璧」が、いま歴史的な山岳地帯で完璧な噛み合わせを見せていた。
二万の軍勢を持つ新国軍は、驚くべきことに、わずか六千の軍勢を前にして、ジリジリと後退を余儀なくされていた。
「馬鹿な……奴ら、本当に同じ軍勢なのか!? 数日前にあれほど無様に逃げ惑っていた負け犬どもが、なぜこれほどまでに強い!?」
前線からの悲鳴のような報告に、本陣の張魁は顔を驚愕に変えた。
帝国軍の戦い方は、まるで死を恐れぬ執念の塊のようでありながら、その実、極めて緻密に計算されていた。
張魁が仕掛けようとする罠や、地形を利用した奇襲は、すべてイリアードのセレスティア軍によって事前に潰されるか、あるいはアラリックの圧倒的な突破力によって力任せに粉砕されてしまうのだ。
「将軍! 右翼の部隊が突破されました! 皇帝アラリックの親衛隊が、我が本陣に向けて一直線に突進してきております!」
「何だと!?」
張魁が前方に目をやると、返り血で真っ赤に染まった黒鉄の甲冑を纏うアラリックが、新国兵をなぎ倒しながら、鬼神の如き形相で迫ってくるのが見えた。
「張魁ーーーっ!! 貴様の策など、二度は通用せん! 余の前に平伏せ!」
アラリックの怒号が本陣まで届く。
張魁は自身の愛槍を掴み、怒りで顔を真っ赤に染めた。
「小賢しい若造が! 運良く生き延びただけの無能な皇帝め、我が手で今度こそ叩き潰してやるわ! 全軍、皇帝を囲め! 奴の首を取った者には、新国の最高の爵位と莫大な褒賞を与えるぞ!」
張魁みずからが直属の精鋭二千を率いて前線へと飛び出し、アラリックの近衛軍と正面から激突した。




