『血涙峡の反撃と逆転の弓術』
北東国境の峻険な山並みは、まるで天を突く巨大な獣の牙のように連なっていた。
数日前、アルストラーナ帝国軍が凄絶な敗北を喫し、一万以上の同胞の血で染まった深谷『血涙峡』。その陰惨な記憶が立ち込める山岳地帯の入り口、ヘクスハイム砦の門がついに開かれた。
吐き出されるのは、一度は地獄の底を見ながらも、不死鳥のごとく蘇った六千の兵たちである。
先頭を進むのは、漆黒の甲冑に身を包んだ皇帝アラリック。御歳二十四歳。一度は自責と絶望に打ちひしがれ、泥に塗れた宝剣を床に投げ捨てた覇王だが、いまその瞳に宿るのは、燃え盛るような苛烈な戦意と、絶対的な支配者としての威厳であった。
「全軍、一歩も退くな。この戦いは、ただの防衛戦ではない。我が帝国の、そして死していった一万の同胞の誇りを取り戻す聖戦である!」
アラリックの声が、山々に木霊となって響き渡る。その斜め後ろ、白馬に跨がり、水色の外套を風になびかせる青年が静かに微笑んだ。皇帝の異母弟であり、南方の開拓地『セレスティア』を統べる親王イリアード(十九歳)である。
彼が率いてきた三千のセレスティア精鋭は、磨き抜かれた銀の鎧を纏い、一糸乱れぬ統制のもとで行軍を続けている。敗残の恐怖を払拭し、近衛兵たちの心を再び一つにまとめたのは、この若き親王の清冽な覚悟と、彼らがもたらした豊富な兵糧、そして最高の治療薬であった。
「兄上、敵の斥候が動いています。こちらの再編がこれほど早いとは、張魁も夢にも思っていなかったはず」
イリアードの透き通るような青い瞳が、山筋の向こうを見据える。
アラリックは、引き締まった表情で頷いた。
「フン、新国の崔厳も、そしてあの張魁も、余が失意のまま帝都へ逃げ帰るか、砦に籠って震えていると踏んでいたのだろう。そこが奴らの決定的な甘さだ。イリアード、お前が余の『剣』を拾い上げてくれた。ならば今度は、余がお前の期待に全力で応えるまでだ」
六千の軍勢は、再びあの因縁の地――血涙峡へと向けて、静かに、しかし確固たる足取りで進軍を開始した。
◇
一方、山岳地帯の要衝に強固な陣を敷く新国軍の本陣では、将軍・張魁が届けられた報告の書面に目を剥いていた。
張魁は、熊を思わせる巨躯に無数の傷跡を持つ老練な武将である。前回の戦いでは、完璧な「偽装撤退」によって皇帝アラリックを誘い込み、火攻めと落石で見事に帝国軍を壊滅に追い込んでみせた。
「……何だと? アラリックが再び進軍してきただと!? 馬鹿な、生きて五体満足で逃げ帰った近衛は三千そこらのはず。朝廷はパニックに陥り、内紛が起きている頃合いではないのか!」
副官が冷や汗を流しながら報告を続ける。
「それが……南方からセレスティア親王イリアードが、三千の直属軍を率いてヘクスハイム砦に合流した模様です。さらに、失われていたはずの兵糧や塩、物資が湯水のように運び込まれ、帝国軍の士気は信じられないほど跳ね上がっているとのこと……」
張魁は、手元の机を激しく叩いた。
「イリアードだと!? あの『帝国元帥』の位を蹴って湿地帯に引きこもったという、大人しい若造か。チッ……崔厳様が帝都の門閥貴族どもを揺さぶり、ボルゲーゼ太尉らを動かす前に、アラリックの息の根を止めねばならんということか。だが、焦る必要はない。敵は合わせて、たったの六千。我が軍は二万の精鋭が、この絶対的に有利な山岳地帯を完全に掌握しているのだ!」
張魁はギラリと不気味な目を光らせ、全軍に通達した。
「敵は一度負けた恐怖を忘れておらんはずだ。再びあの血涙峡へ誘い込め! 今度こそ、アルストラーナ帝国の息の根を完全に止め、皇帝と親王、二人の首を崔厳様への手土産にしてくれるわ!」
◇
四月中旬の冷え込む風が、狭隘な谷間を吹き抜ける。
両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷『血涙峡』。そこは数日前、帝国兵の悲鳴と炎、そして油の臭いに満ちていた地獄そのものであった。
帝国・セレスティア連合軍がその谷口に差し掛かった時、背後の山々から再び、けたたましい銅鑼の音が鳴り渡った。
「まただ! 敵の伏兵だ!」
近衛兵たちの間に、一瞬だけ動揺が走る。前回のトラウマが脳裏をよぎったのだ。
崖の上から、新国軍の兵たちが姿を現し、巨大な岩や丸太、そして火を放った松明を投げ落とそうと構える。
「慌てるな!!」
だが、その動揺を打ち消したのは、イリアード親王の清冽な号令であった。
「前回の戦い、そして我がセレスティアの完璧な補給線を甘く見るな! 兄上がこの地を再び選んだのは、敵が同じ策に溺れると確信していたからだ!」
イリアードが手を掲げると、セレスティア軍の最後方に控えていた大盾を持った重装歩兵たちが即座に前進し、亀の甲羅のように頑強な陣形テストゥドを組み上げた。それだけではない。セレスティア軍の弓兵たちが手にするのは、南方の特殊な硬木で作られた大弓であった。
「放て!!」
崖の上からの落石よりも早く、下から上へと、凄まじい密度の矢の雨が放たれた。通常の弓では届かない崖の上の敵兵たちを、セレスティアの強弓が次々と射抜いていく。悲鳴を上げて崖下へと転落していくのは、新国軍の側であった。
「馬鹿な!? 奴ら、最初から我が軍の配置を見抜いていたかのように……!」
崖の上の新国軍の指揮官が驚愕する。それもそのはず、イリアードはヘクスハイム砦に到着した瞬間から、現地の狩人や斥候を使い、血涙峡の地形と張魁の伏兵が配置されやすいポイントを完璧に逆算していたのだ。
「今だ、兄上!」
イリアードが叫ぶ。
「おおお! 突撃せよ! 我が近衛の誇りを見せる時が来た!」
アラリックが自ら黒鉄の宝剣を抜き、先陣を切って馬を走らせる。その姿は、かつて数々の戦場を無敗で駆け抜けた若き覇王そのものであった。
皇帝みずからの突撃に、近衛兵たちの士気は限界を超えて跳ね上がる。一度は恐怖に震えた兵たちが、いまや狂戦士の如き咆哮を上げて、谷底に布陣していた張魁の前衛部隊へと襲いかかった。
「怯むな! 敵はたったの六千だ、押し包んで圧殺せよ!」
新国の将校たちも必死に叫び、二万の圧倒的な軍勢が数の暴力を以て帝国軍を押し潰そうとする。
激しい金属音が谷間に響き渡り、肉と肉がぶつかり合う凄絶な乱戦が始まった。




