『残の砦に誓う逆転の旗』
「兄上。一度の敗北で、帝国の皇帝たるお方がそのような弱音を吐かれるのですか」
「なに……?」
「勝敗は兵家の常と言います。敵の崔厳は、己の命と国の存亡を賭けて泥臭い策を弄してきた。兄上は電撃戦で速やかに決着をつけ、帝国の財政を守ろうとされるあまり、敵の死物狂いの執念を見誤った……ただそれだけのことではありませんか」
「ただそれだけのことだと!?」アラリックは叫んだ。「一万以上の兵が死んだのだぞ! 余の過ちで! ジョヴァンニやヴァレリオの言う通り、余の親征など愚策だったのだ!」
「では、ここで兄上が死に、あるいは失意のまま帝都へ逃げ戻れば、その死んだ一万の兵は報われるのですか?」
イリアードの毅然とした言葉が、アラリックの胸に鋭く刺さった。
イリアードは一歩、兄に歩み寄った。
「僕が『帝国元帥』の位を辞退し、セレスティアに引きこもった理由をお忘れですか? 僕は兄上に、誇り高き覇王として帝国を統べてもらいたかったからです。帝都の老獪な政治家どもや、権力を狙う門閥貴族どもを抑え込めるのは、他ならぬアラリック兄上、あなただけだからです」
イリアードは腰の剣を抜き、その刃を上にして、両手でアラリックの前に差し出した。
「僕の率いてきた三千は、セレスティアの精鋭です。そして、ソルトラグーンと大河アシェロンの水運を使い、さらなる兵糧と軍資が後方から続々と届きます。……帝国の剣は、まだ折れてなどいません」
アラリックは、弟が差し出す剣と、その澄んだ瞳を凝視した。
「イリアード……お前は、余に再び戦えと言うのか? この恥を晒した余に……」
「恥を拭う方法は、一つしかありません」 イリアードの口元に、かすかな、しかし絶対の信頼を帯びた笑みが浮かんだ。
「その手で崔厳の首を刎ね、燕国の地に帝国の旗を再び打ち立てることです。逃げて帝都に戻れば、太尉ヴァレリオ殿や旧第4皇子ロデリック擁立派が牙を剥き、帝国は内分裂を起こします。ここで敵を打ち砕いてこそ、真の皇帝となられるのです」
朝靄の晴れ渡った窓から、眩いばかりの陽光が差し込み、二人を照らした。
アラリックは深く、深く息を吐き出した。胸の中に渦巻いていた暗い情念と自責の念が、弟の力強い言葉によって削ぎ落とされていくのを感じた。
敗北の屈辱は消えない。だが、それを洗い流すための血と気迫が、アラリックの体に再び満ち溢れていく。
アラリックは、イリアードが差し出した剣の柄を、力強く握りしめた。
「……生意気な弟だ。相変わらず、余の心を見抜くのが上手い」
「弟ですから」イリアードは静かに微笑んだ。
アラリックは剣を鞘に収めると、背筋をピンと伸ばし、かつての覇王の眼光を取り戻してイリアードの肩を固く掴んだ。
「よくぞ来た、イリアード。其方の言う通りだ。余の親征は、まだ終わっておらん。このヘクスハイムの地から、反撃を開始する!」
「ハッ! セレスティア軍三千、皇帝陛下の御旗のもと、いつでも出陣の用意はできております!」
◇
その日の午後。ヘクスハイム砦の広場に、再編された帝国軍が整列していた。
敗残の失意に沈んでいた三千の近衛兵と、新しく加わったセレスティアの精鋭三千。計六千の軍勢の前に、黒鉄の甲冑を再び纏った皇帝アラリックが姿を現した。
兵たちの間に、どよめきが起きる。皇帝の顔から、あの逃亡の際の絶望と陰りは完全に消え去っていた。そこにあったのは、凄絶なまでの戦意と、絶対的な支配者の威厳であった。
アラリックは壇上に立ち、集まった兵たちを見渡した。
「帝国の勇士たちよ!」
アラリックの声が、砦の石壁に反響し、兵たちの耳に届く。
「我らは血涙峡にて卑劣な逆賊の罠に落ち、多くの同胞を失った! 余の不徳により、汝らに惨めな思いをさせたことを、ここに謝罪する!」
皇帝自らの謝罪に、兵たちは息を呑んだ。
「だが――!」 アラリックは宝剣を抜き放ち、空へ掲げた。
「我が帝国の剣は、折れてはおらん! 南方よりセレスティア親王イリアードが精鋭と兵糧を携え、我らのもとへ駆けつけてくれた! 我らにはまだ、戦う糧があり、共に血を流す同胞がいる!」
兵たちの目が、少しずつ輝きを取り戻していく。
「不義をもって主を殺し、我らと同胞の血を嘲笑う逆賊・崔厳を、このまま生かしておいてよいと思うか! 帝国の誇りを踏みにじられたまま、逃げて帰れると思うか!」
「「「思わない! 思わない!!」」」 誰からともなく、叫び声が上がった。
「逆賊を討つ! 我らの血の代償を、奴らの首で支払わせるのだ! 余に続け! 帝国の栄光を、再びその手に掴み取るのだ!」
「「「オオーーーーーーッ!!!!」」」
地鳴りのような歓声が、ヘクスハイムの空を突き破った。敗残兵だった者たちの目に、再び燃え上がるような闘志が宿っていた。イリアード率いるセレスティア軍の参戦と、アラリックの復活が、全軍の士気を天へと跳ね上げたのだ。
壇上の脇でその光景を見つめていたイリアードは、静かに満足の笑みを浮かべた。
(さすがはアラリック兄上。一度挫けたからこそ、その刃はより鋭く、研ぎ澄まされた……)
イリアードの側臣が近寄り、小さく囁く。 「殿下、帝都ラーナの尚書令ジョヴァンニ様や、後宮の太皇太后様、皇后様にも、殿下がヘクスハイムに入城し、陛下と合流された旨の密使を飛ばしました。これで帝都の動揺も抑えられましょう」
「うむ、上々だ。南のソルトラグーンからの第二陣の物資も、もうすぐフローラブルグに届くはずだ。兵糧の心配はない」
イリアードは視線を北東の険しい山並みへと向けた。
(新国の崔厳よ……。皇帝敗走の報に歓喜し、酒を汲み交わしている頃だろう。だが、本当の地獄はこれからだ)
朝靄は完全に晴れ渡り、ヘクスハイム砦には黄金の陽光が燦然と降り注いでいた。




