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『絶望の砦に咲く水蓮の旗』

朝靄が、不気味なほど重く垂れこめていた。

北東の山岳地帯の入り口に位置するヘクスハイム砦。湿った寒気が古びた石壁をなで、血と硝煙の残臭を際立たせる。ほんの数日前、『血涙峡』にて新国軍の苛烈な伏兵に遭い、無残な敗走を喫したアルストラーナ帝国軍の無念が、いまもこの城砦全体に重く淀んでいた。

かつて一万五千を誇った皇帝直属の精鋭は、いまや手負いの兵が三千余り。甲冑は途中で投げ捨てられ、剣の刃はこぼれ、負傷者のうめき声があちこちから漏れ聞こえる。惨敗の恐怖と、皇帝親征の失敗という巨大な挫折感が、兵たちの精神をじわじわと削り取っていた。

砦の本陣――かつて将校たちの控室であった粗末な部屋で、皇帝アラリックは一人、肘をついていた。御歳二十四歳。昨年の血塗られた皇位継承劇を勝ち抜き、無敗の覇王として君臨するはずだった青年皇帝の顔には、濃い影と拭い去れぬ屈辱が刻まれていた。

「……余の不徳か。余の焦りが、兵を殺したのか」

呟く声には、いつも紫霄殿で群臣をひれ伏せさせていた圧倒的な威厳はない。黒鉄の甲冑には、逃走の際に浴びた返り血と泥が乾きつき、腰の宝剣もまた、虚しく重く感じられた。

電撃戦で新国の首都『鳳山』を急襲しようとした焦りが、敵将・張魁の偽装撤退を見抜けぬ甘さを生んだ。後方の補給を断たれ、火の海と化した谷底で、兵たちはただ殺されていったのだ。

(帝都ラーナでは今頃、太尉ヴァレリオや尚書令ジョヴァンニらが余の敗北に色めき立っているだろう。後宮では皇后ロザリアや母上が涙を流しているかもしれぬ。……余は、帝国を率いる資格を失ったのか)

自責の念と絶望が、アラリックの胸を酷く苛んでいた。

その時だった。砦の警鐘が、けたたましく鳴り渡った。

「報告! 朝靄の向こうから軍勢が接近! 数はおよそ三千!」

見張り兵の悲鳴に近い叫び声が本陣に届く。失意に沈んでいた将校たちが一斉に色めき立ち、剣を抜いた。

「なに!? 敵の追撃か!」 「新国軍め、ここも包囲して我らを全滅させる気か!」 「おわりだ……もうおしまいだ……!」

敗北のトラウマに囚われた兵たちの間に、瞬く間にパニックが広がっていく。アラリックは重い腰を上げ、兜を握りしめると、重い足取りで砦の門楼へと向かった。

(追撃が来たか。ふん、よい。ここで余の命が潰えるならば、それもまた破滅の結末として相応しかろう……)

半ば投げやりな決意とともに、アラリックは城壁の上から朝靄の漂う平原を見下ろした。

白く濃い靄の向こうから、地鳴りのような足音が近づいてくる。数千の兵の行軍。だが、どこか不自然だった。敵の怒号も、勝利を誇る勝ちどきも聞こえない。ただ粛々と、統制された完璧な軍律のもとに足音が刻まれている。

やがて、朝日が朝靄をうっすらと切り裂き、幽玄な光の輪郭を浮かび上がらせた。

そこにあらわれたのは、新国軍の旗ではなかった。

漆黒に銀糸で咲き乱れた蓮の花の旗印――。

「あ……あれは……!?」 城壁の兵が息を呑んだ。

「セレスティア親王旗……! セレスティアの軍勢だーっ!」

叫び声が、砦全体に激震となって駆け抜けた。

朝靄を押し分けて現れたのは、美しく磨き抜かれた銀の鎧を纏う三千の精鋭であった。兵たちの背には水色の外套がはためき、掲げられた槍の先は朝日に眩しく輝いている。

そして、その三千の先頭に立つのは、一頭の白馬であった。

乗っているのは、一人の青年。御歳十九歳。現皇帝アラリックの異母弟であり、かつて不毛の大湿地帯と呼ばれたセレスティアを開拓し、流麗華美な水の都『アクアパレス』や製塩の拠点『ソルトラグーン』を作り上げたセレスティア親王――イリアードである。

イリアードは砦の門前で馬を止めると、優雅な動作で兜を脱いだ。透き通るような青い瞳が、城壁の上のアラリックを捉える。

「兄上! セレスティア親王イリアード、三千の手勢を率い、救援に駆けつけました!」

その声は清涼で、血と硝煙に汚れたヘクスハイム砦の重苦しい空気を一瞬にして吹き飛ばすかのように、すみずみまで響き渡った。

◇

砦の大門が開かれ、イリアード率いるセレスティア軍が整然と入城した。

三千の兵は、敗走してきた近衛軍とは比較にならないほど士気が高く、かつ完璧に統制されていた。彼らの背の包みには、大量の兵糧、乾燥肉、そしてソルトラグーン特製の良質な塩と傷薬が積み込まれていた。

「ただちに負傷者の手当てを! 兵糧を焚き出し、温かいスープを全軍に振る舞え!」

イリアードの臣下がテキパキと指示を飛ばし、疲れ果てていた帝国兵たちに熱い食事と手当てが与えられていく。砦の中に、久しぶりの生気が戻り始めていた。

本陣の部屋で、アラリックはただ一人、テーブルの前に立っていた。そこへ、イリアードが静かな足取りで入ってくる。

二人の異母兄弟が、対峙する。

昨年の皇位継承劇の際、イリアードは少数の手勢で迅速に帝都へ入り、近衛軍と親衛隊を掌握してアラリックの即位を決定づけた立役者であった。その功績に対し、アラリックは「帝国元帥」の位を打診したが、イリアードはそれを辞退し、南方のセレスティアへと引き下がった経緯がある。

権力の頂点に立つ兄と、一歩引いて兄を支える弟。

アラリックは、喉を詰まらせながら口を開いた。

「……イリアード。なぜ、ここに来た」

その声には、敗軍の将としての屈辱と、弟に不甲斐ない姿を見せられた恥ずかしさ混じりの複雑な感情が籠もっていた。

「余は敗れたのだぞ。敵の浅薄な罠にハマり、直属の精鋭を惨殺させ、無残に敗走した。朝貢国の不義を正すどころか、帝国の威信を地に堕とし、余自らも逃げ走ったのだ。……そのような無能な皇帝を、なぜ救いに来た?」

アラリックの激しい自責の言葉を、イリアードは静かに受け止めた。彼は怒りも、落胆も、過度な同情すらも見せず、ただ透き通った瞳で兄を見つめていた。

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