『破滅の序曲』
その凶報は、まるで帝都ラーナを揺るがす大地震のごとく、朝廷の静寂を容赦なく打ち砕いた。
政務の最高中枢である紫霄殿。高い天井と重厚な石柱がそびえる広間には、つい先刻までの厳粛な空気が嘘のように消え去り、乱動と悲鳴が渦巻いていた。
「――敗戦……!? 陛下が敗走されたと、いま何と言った!?」
尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクの金切り声が響きわたる。駆け込んできた伝令兵から幾重にも封印された極秘の文を受け取り、一読した途端、ジョヴァンニの顔面からすっと血の気が引いた。
「バカな……バカなことがあってたまるか! 皇帝陛下の親征軍だぞ!? 帝国の誇る精鋭一万五千のうち、一万以上が討ち取られただと……!?」
膝から崩れ落ちるように、ジョヴァンニは玉座へ続く大理石の階段に手をついた。 自らが恐れていたのは、遠征の長期化による「軍費の増大と財政圧迫」だったはずだ。しかし、目の前に突きつけられた現実は、その懸念すら甘かったことを物語っている。敗北などという生ぬるいものではない。皇帝アラリックが率いた中央精鋭軍そのものが、一夜にして壊滅したのだ。
その喧噪の中、三公の一人である太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼだけは、緩やかに腕を組み、冷徹な眼光を紫霄殿の天井へと走らせていた。
(アラリックの奴……まんまと敵の術中にはまりよったか)
鎧の擦れる音を微かに響かせながら、ヴァレリオは唇の端をわずかに吊り上げる。
(皇帝直属の近衛と親衛隊が消え去った。これで帝都を固める軍権のすべては、この余の手の中に残されたわけだ。……ふふ、長かったな。ようやく時代が動く)
司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルクが苦々しげに額の汗を拭い、老獪な侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンは静かに目を閉じ、深く長いため息をつく。確たる言葉を発する者は誰もいなかった。だが、重臣たちの眼差しの交錯の裏には、「もはやアラリックでは帝国を支えきれぬのではないか」という黒い疑念と不安が、毒霧のようにじわじわと広がり始めていた。
◇
激震は、深宮の奥深く――後宮(内廷)の静寂をも容赦なく切り裂いた。
「……陛下が……負けられた……?」
絹のドレスの袖を震わせ、皇后ロザリアはその場に膝をつきかけた。顔からは完璧に飾られた美しい笑みが消え失せ、蒼白な唇が激しく戦慄いている。傍らに控えていた侍女たちが焦ってその身体を支えた。
その向かいでは、アラリックの母である皇太后ジュリエットが、手にした漆器の茶碗を床に落とし、甲高い音を立てて割れるのも気づかぬまま言葉を失っている。
権勢の頂点にいたシュタインベルク家の威光が、足元から音を立てて崩れ去っていくような錯覚。冷たい恐怖が、二人の胸を締め付けていた。
「——情けない! シャキッとなさい、ロザリア! ジュリエット!」
静寂を突いたのは、鋭く重みのある喝だった。
後宮の奥座敷から進み出たのは、二代前の皇帝の時代から宮廷を見守り続けてきた太皇太后アデレードであった。その手に握られた黒檀の杖が、石畳をドスンと強く突く。
「たたたた、太皇太后様……! しかし、軍が壊滅し、陛下が……」 「敗北したからとて、アラリックが討ち死にされたわけではありません!」
アデレードの深いシワの刻まれた瞳には、強い覇気が宿っていた。彼女は動揺するロザリアの顎を杖の先で小さく持ち上げ、正面から見つめつける。
「我ら内廷の者がここで取り乱して見せなさい。帝都に蠢く野心家どもが一斉に牙を剥き、今日にもこのラーナが血の海になりますよ。権力を握る家に生まれたのなら、底の浅い狼狽えなど見せるんじゃないよ!」
「……っ、はい……謹んで、お言葉に従います……」
アデレードの毅然とした一言により、ふたりはなんとか正気を取り戻した。しかし、一度宮殿を覆ってしまった冷たい絶望の影は、いくら喝を入れようとも、容易に晴れることはなかった。
◇
敗戦という悪夢の波紋は、帝都ラーナから南東へ百五十キロメートル――大河アシェロンのせせらぎが響く『セレスティア』の地にも、疾風のごとき早馬によって即座に届いていた。
豊かな水の都『アクアパレス』。 陽光が水面に反射して天井を美しく揺らめかせる親王執務室で、セレスティア親王イリアード(十九歳)は、差し出された密書を沈黙の中で握りつぶした。
「殿下……! 大変なことになりました……!」
側近が息を荒らげ、血の気の引いた顔で報告を続ける。
「血涙峡にて皇帝陛下の親征軍が完敗……! 精鋭一万二千を失い、陛下は手負いの兵わずか三千を引き連れ、北東のヘクスハイム砦まで命からがら敗走されたとのことです!」
報告を聞くイリアードは、静かに紺碧の瞳を閉じた。
窓から吹き込む水辺の風が、彼の美しい銀髪をサラリと揺らす。
「……補給線は完璧に繋げていた。塩も、兵糧も、何一つ滞りなく届けていたはずだ。だが……兄上は焦りすぎたな」
イリアードの声は、恐ろしいほど静かだった。取り乱す様子も、兄の失敗を嘲笑う色もない。ただ、胸の奥深くに冷徹な事実だけを刻み込んでいる。
「燕国の峻険な山岳地帯という地理的リスク。そして、新王を騙る崔厳という男の泥臭い執念……電撃戦を急ぐあまり、兄上はその双方を読み違えたのだ」
「殿下! いかがなさいますか!?」
側近が耐えきれずに前へ踏み出してきた。
「いま帝都ラーナでは、軍権を握るボルゲーゼ太尉や、旧第4皇子ロデリック殿下を担ぎ出そうとするブライトクロイツ家が不穏な動きを見せております! さらに西南のボルゲーゼ親王領にいるイザーク殿下まで動き出せば……アルストラーナ帝国は、瞬く間に四分五裂いたします!」
「……ああ。分かっている」
イリアードはゆっくりと瞼を開いた。その瞳には、深い悲しみとともに、揺るぎない確信の光が宿っていた。
「……僕が行く」
「……えっ?」
側近たちが一瞬、言葉を失う。
イリアードは机に手をついて立ち上がると、壁に掛けられたセレスティアの紋章が刻まれた愛剣へと歩み寄った。鞘を掴むその手には、確かな力が込められている。
「昨年の皇位継承の際、僕は『帝国元帥』の栄誉ある位をあっさりと辞退した。そして、誰もが見捨てていたこのセレスティアの開拓に身を投じた。……何のためか分かるか?」
愛剣を腰に帯び、イリアードは振り返る。その顔には十九歳とは思えぬ貫禄と覇気が満ちていた。
「兄上が立ち戴く帝国を、後ろから経済と財で支えるためだ。兄上こそが、この帝国を導く真の皇帝だと信じていたからだ。……だが、その兄上が破れ、帝国が崩壊の危機に瀕しているというのなら――僕がこの手で、失われた帝国の骨組みを繋ぎ止めなければならない」
「殿下……っ!」
「セレスティアの全軍に動員をかけろ」
イリアードは迷いのない声で立て続けに命を発した。
「ソルトラグーンとベラグランデに備蓄してある資金と物資をすべて解放する。即座に再編軍を立ち上げるのだ。……目指すは帝都ラーナ、そして北東のヘクスハイム砦だ!」
「は、ははっ! セレスティア軍、直ちに出陣の準備に入ります!」
臣下たちが一斉に頭を下げ、足早に執務室を飛び出していく。
一人残されたイリアードはテラスへと踏み出し、南方の暖かい風を一身に浴びながら、遥か北東の空を見つめた。雲の切れ間から差し込む光が、彼の横顔を鮮やかに照らし出す。
「兄上……どうか、どうかヘクスハイムで持ちこたえてください」
イリアードは剣の柄を強く握りしめ、心の中で呟いた。
「あなたが戦場に落としてしまった帝国の威信と剣……この弟が、必ずや拾い上げてみせますから」
皇帝アラリックの衝撃的な敗走。 平穏を保っていたアルストラーナ帝国は、昨年の血塗られた皇位継承劇を遥かに凌ぐ、苛烈なる大乱世の渦中へと呑み込まれていくのだった。




