『血涙峡の大敗と若き覇王の屈辱』
三月。
帝都ラーナの東門から打って出た帝国軍の行軍は、一見すると破竹の勢いであった。
黒鉄の甲冑に身を包み、自ら先頭を切る皇帝アラリックは御歳二十四歳。昨年の血塗られた皇位継承劇を勝ち抜き、見事に帝位を掴み取った若き覇王である。
「全軍、歩調を緩めるな! 燕国を乗っ取った逆賊・崔厳に、防備を固める時間を与えるな!」
アラリックの狙いは、圧倒的なスピードで押し潰す「電撃戦」であった。戦いが長引けば、尚書令ジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクの危惧した通り莫大な軍費が帝国を押しつぶし、補給線も伸び切ってしまう。
皇帝直属の近衛軍と親衛隊を中心とした精鋭一万五千は、一直線に新国の首都『鳳山』を目指した。
帝都留守居役には、かつて『ヴァルハルトの乱』で大功を立てた太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼを置き、軍部の抑えとする。
また、帝都の南東百五十キロメートルに位置する大湿地帯『セレスティア』を統治する異母弟・イリアード親王(十九歳)からも、水の都『アクアパレス』や『ソルトラグーン』の豊富な財を背景とした膨大な兵糧と塩の供給が、完璧な手際で補給線に乗せられていた。
文武の足並みは揃い、勝利は疑いようもないかに思えた。――だが、それこそが新王を騙る逆賊・崔厳の仕掛けた巨大な罠であった。
◇
四月中旬。北東の国境を越え、峻険な山岳地帯へと足を踏み入れた帝国軍の前に、新国将軍・張魁率いる二万の軍勢が立ちふさがった。
狭隘な谷間に陣を敷く敵に対し、アラリックは一蹴した。
「包囲などしていれば数週間を費やす。余自らが親衛隊を率いて敵の側面を突き、一気に突破する!」
「危険すぎます、陛下!」と側近が制止するのも聞かず、アラリックは自ら剣を抜き、先陣を切って突撃した。
帝国の覇王自らの突撃に近衛の士気は一気に跳ね上がり、数時間の激闘の末、張魁の軍勢は脆くも崩れ去り、奥へ奥へと敗走していった。
「見よ! 逆賊の兵など恐るるに足らん! このまま鳳山へ突入する!」
勝利に沸き立つ帝国軍。しかし、アラリックの鋭い瞳すらも、敵の凄絶な「意図」を見抜けなかった。張魁の敗走は、帝国軍をさらに深く、険しい山谷の奥深くへと引きずり込むための偽装敗走だったのだ。
翌日、帝国軍が両脇を断崖絶壁に囲まれた深谷『血涙峡』に差し掛かったその時――激しい銅鑼の音が山々にこだました。
「な……なに!?」
アラリックが空を見上げた瞬間、崖の上から無数の巨石と丸太が雨あられと落ちてきた。悲鳴と怒号、馬のいななきが狭い谷間に渦巻く。前衛と後衛が落石によって容赦なく断ち切られ、軍は一瞬にして分断された。
「罠だ! 敵の伏兵だーっ!」
崖の上から降り注ぐのは、石だけではなかった。油を染み込ませた松明と火矢が大量に投げ込まれ、谷底は一瞬にして猛火の地獄と化した。後方の補給部隊は炎に包まれ、イリアードが送った貴重な兵糧と塩は黒煙となって舞い散っていく。
さらに、敗走したはずの張魁の軍勢が、前方から完璧な陣形を整えて押し寄せてきた。両側の崖からも新国の精鋭が崖を駆け降り、分断された帝国軍へ襲いかかる。
「くっ……おのれ逆賊ども!」
アラリックは迫りくる敵兵を次々と斬り伏せるが、狭い谷間では自慢の重装騎兵も足をすくわれ、機動力を完全に奪われていた。混乱した帝国兵は押し合いへし合いとなり、戦うことすらできずに倒れていく。
「陛下! ここはもはや支えきれません! お召し物を替え、お下がりくだされ!」
近衛隊長が血まみれの顔で叫び、アラリックの手綱を無理やり引いた。
「疾しい逆賊相手に……この余が背を見せろと言うのか!?」
「陛下がお命を落とせば、帝国は瓦解いたします! お許しくだされ!」
親衛隊が命を投げ打って肉の壁となり、皇帝の逃げ道を切り開く。アラリックは悔しさに唇を噛み切り、血の味を噛み締めながら、ついに撤退の決断を下した。
「全軍……撤退! ヘクスハイムの砦まで引くのだ!」
その撤退戦は、アルストラーナ帝国の歴史に深く刻まれる惨劇となった。
勝ち誇る新国軍の追撃は苛烈を極めた。山道を逃れる帝国軍の背後から容赦なく矢が降り注ぎ、将兵は重い甲冑を捨て、武器を投げ打って逃げ惑った。整然としていたはずの「皇帝直属の精鋭」は影もなく、ただの命からがら逃げ惑う潰走者へと成り果てていた。
追撃を振り払い、命からがら国境沿いのヘクスハイム砦に辿り着いた時、一万五千を誇った軍勢は、わずか三千余りの手負いの兵にまで激減していた。
「……余の不徳だ」
砦の仮本陣で、アラリックは血と泥に汚れた兜を床に投げ捨てた。その手は悔しさと激怒で激しく震えていた。
電撃戦で敵を打ち砕くはずが、あまりの血気走りによって敵の術中にハマり、歴史的な大敗を喫してしまったのだ。
自ら親征した皇帝の凄惨な敗走――それはアルストラーナ帝国の威信を完璧に打ち砕く、衝撃的な敗北であった。




