『孤高の皇帝と偽りの王座』
夜の冷気が、若き皇帝アラリックの身を刺すように包み込んでいた。
シュタインベルク家が掌握する圧倒的な権勢――それに向けられる周囲の強い不満と嫉妬は、宮廷の至るところで音もなく渦巻いていた。
その日の午後、アラリックは中書令マートル・フォン・ブライトクロイツと、侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンを執務室へと召見した。マートルは旧貴妃ソフィアの弟であり、かつてアラリックと激しい皇位継承争いを繰り広げた旧第4皇子ロデリック(現ソブリナ親王)の叔父にあたる名門の当主である。
「陛下……シュタインベルク家のお振る舞いは、もはや度を越しております」
マートルは周囲の目を気に掛けるように声をひそめ、内に秘めた熱を滲ませて語りかけた。
「政務の根幹を尚書省だけで独占し、我ら中書省や門下省の奏上をことごとく握り潰している……これでは帝国の政治ではなく、シュタインベルク家の家政も同然。どうか、太尉ヴァレリオ卿や我らにお命じください。あの増長を抑え込む術など、いくらでもございます」
耳に心地よい申し出だった。だが、アラリックはその甘い言葉の裏に透けて見える野心を、鋭く見抜いていた。
マートルが狙っているのは、単なるシュタインベルク家の制裁ではない。外戚を失脚させ、姪であるソフィアとその子ロデリックの権力を復権させ、ひいては己のブライトクロイツ家による権力独占を果たすこと――ただそれだけだ。
一方、老獪な政治家として宮廷を生き抜いてきた侍中ゲオルグ・フォン・フェルゼンは、ただ静かに笑みを浮かべ、成り行きを見守っている。
「フェルゼン卿、其方はどう思うか」
アラリックが不機嫌そうに問いかけると、ゲオルグは深々と頭を下げた。
「老臣には、ただ……『風が冷たい』としか感じられませぬ。風向きが変われば、いかに大木とて倒れ、あるいは折れるもの。陛下におかれましては、どの木にも深くお寄りかかられぬのが、最も賢明かと存じます」
(誰も信じられない――)
心の中で呟く。絶大な権力を振るう外戚シュタインベルク家、権座を奪い返そうと牙を研ぐ旧勢力のブライトクロイツ家、そして日和見を決め込むゲオルグのような老臣たち。全員がアラリックという若い皇帝をただの飾りに仕立て上げ、自らの権益を拡大することしか頭にないのだ。
さらに、軍事の要を握る太尉ヴァレリオ・フォン・ボルゲーゼの存在が、アラリックの神経を重く逆撫でしていた。
ヴァレリオはかつてヴァルハルトの乱を平定した大功臣であり、旧第3皇子イザークの叔父でもある。アラリックは彼から実権のある軍権を剥ぎ取るため、名誉職である太尉へと押し上げ、甥のイザークには西南の肥沃なボルゲーゼ親王領を与えて帝都から遠ざけた。
だが、軍部に絶大な影響力を残すヴァレリオが、いつ裏切って甥のイザークを新たな皇帝として担ぎ出すか――その疑心暗鬼が消えることはなかった。
◇
重苦しい政務を終えた夜。アラリックは癒やしを求めて皇后ロザリアの宮殿を訪れた。
しかし、そこにも彼の安らげる居場所など存在しなかった。
「陛下、今日はお顔色が優れませんわ」
豪華なドレスに身を包んだ皇后ロザリアは、優雅な所作でお茶を淹れながら微笑んだ。しかしその瞳には、夫への愛ではなく、実家シュタインベルク家の顔色を伺う冷ややかな計算だけが宿っている。
「父ジョヴァンニから伺いましたわ。減税の件を取り下げられたとか……とても賢明なご判断です。お若い陛下が独断で動かれますと、宮廷の調和が乱れてしまいますもの」
「……ロザリア。其方は、私とシュタインベルク家、一体どちらの味方なのだ」
思わず漏れ出た言葉に、ロザリアは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。だが、すぐに完璧な艶やかな微笑みを張り直す。
「お戯れを、陛下。シュタインベルク家があるからこそ、陛下も、私もこうして頂点におられるのですわ。……私たちは、最初から一つでございます」
胸を締め付けられるような息苦しさに耐えかね、アラリックは宮殿を抜け出した。
冷たい夜気が漂うバルコニーに一人たたずむ。眼下には、静寂と暗闇に沈む巨都ラーナの街並みが広がっていた。
アラリックの視線は、その遥か南東の先――大河アシェロンの河口を越えた先にある大湿地帯へと向けられる。
セレスティア。
かつては不毛の地と捨て置かれていたその場所に、異母弟イリアードが作り上げたという「アクアパレス」の噂は、いまや帝都にも届いていた。
製塩の一大拠点「ソルトラグーン」を整備し、貿易拠点フルヴィアルトや対岸の直轄都市フローラブルグとの取引によって、セレスティアは今や独自の豊かな経済圏を築き上げているという。
権謀術数が渦巻く醜い帝都をあっさりと捨て去り、己の力だけで荒野を開拓し、民を富ませている十九歳の弟。
「イリアード……お前はこの孤独を知っていたのか。だからこそ、帝国元帥の座すらあっさりと投げ捨てて去ったというのか」
アラリックは夜空に浮かぶ孤月を見上げた。
皇帝に即位して一年。手に入れたはずの「絶対的な権力」は、己の全身を縛りつける透明な鎖に過ぎなかった。
味方など、最初からどこにもいない。血の繋がった家族ですら、自分を喰らおうと牙を隠した狼なのだ。
夜のアルストラーナを突き抜ける二月の寒風が、若い皇帝の頬を容赦なく刺した。
アラリックは小さく身震いすると、静かにマントを羽織り直した。明日もまた、裏切りと欺瞞に満ちた宮廷の朝がやってくる。
この深い闇の中で、自らが真の皇帝として立ち上がる日が来るのか。 それとも、傀儡のまま惨めに歴史の闇へ消えるのか――。
孤独な葛藤は、明けることのない夜のように、どこまでも続いていくのだった。




