『白亜宮の孤高なる皇帝』
帝国歴302年2月。
大河アシェロンから吹きつける寒風が、アルストラーナ帝国の首都ラーナを白く染め上げていた。重厚な石造りの白銀宮は、まるで凍てついた巨大な檻のように冬の雲の下で静まり返っている。
旧第二皇子アラリックが、父なる先帝ヴィンセントの急逝と、それに伴う第一皇子ヴァルハルトの反乱——世にいう「ヴァルハルトの乱」——を経て至高の玉座に即位してから、ちょうど一年が経過していた。二十四歳という若さで帝国の頂点に立った皇帝の頭上に戴く冠は、いまや耐えがたい重圧となってその肩にのしかかっている。
「陛下、本日の政務の資料でございます」
恭しく頭を下げる侍従の差し出した羊皮紙を、アラリックは無言で受け取った。執務室の暖炉には太い薪がくべられ、橙色の炎がパチパチと爆ぜているというのに、彼の背筋を寒気が走り抜ける。この広大な宮廷の中で、温もりを感じられる場所などどこにもなかった。
一年前の流血劇の記憶が、まぶたの裏に鮮明に蘇る。長兄ヴァルハルトの裏切り、血で塗られた玉座の間。その混沌の最中、わずかな手勢を率いて南東の大湿地帯セレスティアから疾風の如く帝都へ駆けつけ、近衛軍と皇帝親衛隊を速やかに掌握して自らの即位を決定づけた異母弟、セレスティア親王イリアードの姿が脳裏をよぎる。
当時わずか十八歳であったイリアードは、乱の平定後、皇帝元帥の位すら辞退し、まるで政治の泥沼を嫌うかのように早々に自領へと去っていった。去り際に彼が残した静かな眼差しを、アラリックは忘れることができない。純粋なる武功と忠誠を示して立ち去った弟の影と比べ、自分はいま、この泥濘のような宮廷政治の渦中で泥に塗れている。
「尚書令ジョヴァンニ卿、ならびに司徒リヒャルト卿がお見えです」
侍従の声に、アラリックは小さく溜息をつき、表情を鉄の仮面へと切り替えた。
◇
扉が開き、ふたりの人物が入室してきた。一人は老練な雰囲気を漂わせた老翁、三公の一角であり民政・内政を統括する司徒リヒャルト・フォン・シュタインベルク。そしてもう一人は、尚書省の長官であり、リヒャルトの息子であるジョヴァンニ・フォン・シュタインベルクである。
「陛下。本年の農村部における減税の件、尚書省にて協議いたしましたが……承服いたしかねますな」
尚書令ジョヴァンニが、どこか見下すような不躾さを隠しもせず、冷ややかな声を響かせた。ジョヴァンニはアラリックの叔父であり、そして皇后ロザリアの父でもある。血縁の絆は、この宮廷においては忠誠の証ではなく、権力を貪るための太い鎖に過ぎなかった。
「昨年の乱の戦後処理、ならびに辺境の防備強化により、国庫は余裕がございません。下々に慈悲を施すなど、時期尚早というもの」
「……しかしジョヴァンニ卿、昨年の長雨と戦乱で、地方の民は困窮している。今ここで減税を行わねば、春の作付けすら危うくなるのではないか」
アラリックが静かに反論すると、後ろに控えていた老司徒リヒャルトがゆるやかに首を振った。
「陛下。国家の根幹は秩序でございます。民草の多少の困窮よりも、帝都の財政の安定こそが先決。太皇太后様、ならびに皇太后様も同じご意見でございます」
リヒャルトの言葉には、抗いようのない重圧がこもっていた。太皇太后アデレードはリヒャルトの妹であり、アラリックの祖母。皇太后ジュリエットはリヒャルトの娘であり、アラリックの母。そして皇后ロザリアはジュリエットの姪。帝国の後宮と政権の核心は、完全にシュタインベルク一門によって固められていた。
アラリックは自身もシュタインベルクの血を引く。彼らが自分を擁立したのは、扱いやすい幼君としての傀儡に仕立て上げるためであった。だが、アラリックが自らの意志で政治を行おうとするたび、こうして外戚の巨大な壁が立ちはだかるのだった。
「……解った。再考しよう」
アラリックは拳を握りしめながら、苦い敗北感を噛み締めて呟いた。ジョヴァンニは満足げに口元を歪め、うやうやしく一礼して去っていった。




